テキスト・アーカイヴ
■写真製版を歩く[6] 吉田寛の印刷術(初出:会報37号)
■01:刷は数値で制御できるか

好評に応えて、「自動車の運転はできない、運転できるのは印刷機だけ」という吉田寛氏(凸版印刷株式会社 情報・出版事業本部第二平印印刷部長)の話をつづけよう。

あるとき、「よいと思う印刷はひとつのはず」と吉田がもらした。ひとつのよい印刷、つまりは印刷に正解があるということだろうか。もしそうなら、印刷は数値で管理できることにならないだろうか。吉田は答える。

「まず無理だな。そこそこはいくけれど、それ以上には届かない」

だが、初めから数値による合理的な管理をあきらめているわけではない。

「ブランケットはこまめに交換してる。一枚二万円近いけどね。半年も交換しない印刷所もあるらしいけど、古くなると、表面がつるつるしてきて、インキのつきが悪くなる。ヒラアミを刷ってみればすぐわかります。機械ごとに印圧の基準も厳密に決めてある。紙の厚さや紙のエンボスの深さなどによって、機械から紙にかかる相対印圧は数値で実測で管理できる」

それでも、と付け加える。

「だけど、機械の経年変化という厄介な問題がある。使っているとだんだん減輪していく、胴がほんのわずか細くなっていく。現時点でのその機械の印圧がいくらだということを常につかんでおかなくてはならない。それと、どんなにメインテナンスをしても、機械によって微妙にちがうんだなあ。同じ機種でも、シャドウが出る機械とつぶれてしまうのとある。あたりはずれというか、とにかくちがう。二台おなじような二色機があって印圧などの数字的仕様は同じでもなかみが全然ちがう。一号機は古くて回転も遅いけれど、アミ点がシャープにつく。ゴミも付きやすいけれどね。回転が遅いほうがいいんだろうね」

そのうえでさらに、盛りたいインキの度合いを調整するという微妙な仕事が最終的に残る。

「経験による見た目という領域は減らす努力はするべきだけれど、どのくらい盛ったらよいか、勘の領域はどうしてもなくならない」という。

色味やインキの盛り具合というのは、どのくらいルール化できるのだろうか。

「ポスターと書籍はちがう。ポスターは、まず鮮やかにということを心がける。校了紙より、さらに一段鮮やかにする。書籍などのページものでは、流れを意識して印刷する。ページをめくっていったときの感じだね。見開きの調子、台別れにまたがった図版などの刷りをそろえなければならない」

私たちの印象では、写真もイラストレーションも印刷の対象としては同類に思えるが、印刷サイドから見るとずいぶんとちがうのだそうだ。写真のように連続階調のものは、インキの盛りで階調がどのように変わるかが予想できる。どんなにコントラストが高い写真でもそのトーンは連続している。

「イラストレーションの階調は滑らかほうがよいのかでこぼこしているほうがよいのか、作風しだいだから、インキの盛りの効果が読めない。インキを盛らないほうがよい印刷は、少ないけれどもある。水彩画などはアッサリとしたほうがよいかもしれないね。絵本やイラストレーションは、そのものズバリではダメ。原画の絵の具に蛍光染料が入っているから、そのまま刷ったら濁っているように見える。透明感を出すために蛍光インキを入れることがある。セットインキを変えたり、アカのなかに蛍光インキを混ぜたり、校了紙をよりアピールするほうに解釈していく。ただし、強ければよいというものでもない。蛍光インキで気をつけなければならないのは、不透明インキだから前のインキを覆い隠してしまう性質があることだね。あとから刷ったインキの色味が強調されてしまう。女性と同じで、きれいなインキには必ず欠点がある」

では、女性の写真はどうか。

「男と女が並んでいたら、それはもう女性中心に刷りますよ。そう思って印刷しなければいけない。ヌードでも、若い女性と少し年輩の女性では違う。若い人はピンクぽく、年輩の人は白に近いくすんだ肌色にする。髪の毛の部分は、印刷物をチェックするのに役立ちますよ。なめらかさで、線数や、原稿が35mmか大型カメラかどうか、さらには見当の確認もできる」

印刷人は、いとおしげに女性を見るように刷り上がりを見ている。

「金属食器などの光りもの系はアカを押さえる。風景ものは緑の部分からアカ味を減らす。金色もむずかしい。金インキで印刷するのと、四色印刷で金色を表現するのとはちがう」

印刷は色を付けることとはちがう、というのが吉田の口ぐせだ。

「歌舞伎などの写真で、バックが真っ暗なときの黒のしまりは少し青いほうがよいね」

同じ闇の黒でも、歌舞伎の黒は青みがかっているのだという。

「どんなインキの盛り、どの色味を強調したらよいかは、原稿を見ないでも長年の経験でだいたいわかる。ただし、絵画だけは元の原稿を見ないとダメ。オリジナルをなるべく忠実に再現しなければならない世界だから。さらに欲を言えば、絵画は実物を見ておいたほうが印刷に反映できる。きれいきたないは関係がなくて、あくまでも実物がどうかだから、絵画ものはむずかしい。しかし、同じ絵でもポジによって色味が全然ちがっていて、どっちの色が本当かわからないのが多くて困る。むずかしい例としてはクリムト。まず肌色がポジによってちがう。いろいろな本を見るのだけれど、あんなにちがっていていいのかなと思う。いちいち外国までクリムトを見に行くわけにもいかないし。鼠色がかった肌色の本もあれば、暖色によった肌色で刷っている本もある。絵画だけは、どんな書物でも同じ色でなければならないと思うけどな。何層にも絵の具を塗ってあるから照明しだいで発色が変わってくるのだろうね。だから化粧品などでは、実物を持ち込んでもらって色合わせをすることがある」

ものを創るのは、あたえられたものでは終わらない。

「同じ紙でも製造時期がちがうと刷り上がりがわずかに変わる。刷版だって、同じ焼き秒数でも二度目は微妙にちがう。現像液の状態が刻々と変わっているわけだし。同じ品質でメーカーから出荷されたインキだとしても、機械の温度がちがったら粘度は変わる。印刷機械は廻っているうちにどうしても熱を持ってくる。常温に押さえようとするのだけれどやはり上下する。温度が上がればアミ点が開く。暖められてインキがゆるむわけだね。そのくらい、印刷は微妙なんですよ」

微妙なものをちがう人がすれば、ちがうものが生まれてくる。ちがうということを積極的に評価していかなければならないはずだ。

「面積測定によるインキの流量調整や、紙の厚さによる印圧管理、ベタ濃度測定などの数値管理も、足が長いと(刷り部数が多い)ある程度は効果があるが、足が短いとあっという間に終わってしまうから、数値に頼っている暇がない。でもむずかしいものだね、足が短いものがおおうにして豪華本とか高級書籍ということが多いわけだからね。1000部2000部なんていうのは本当にむずかしい。500部なんてのは神業だよね」

ヒラアミですら、厳密にいえば現状では5パーセント精度では管理できない。いいところ10パーセント刻みだという。その誌面にあるのがアミだけなら管理できるが、同じページに写真があったりすると調子が変わってしまう。

印刷は複製技術だ。部数が品質に味方をする。量の勝利。部数が決して多くない印刷物の品質をいかに保つのか。ひとつのよい印刷、とは自分が信念をもってよいと思う印刷はひとつだという意味なのだろう。印刷への想いが失われれば、さまざまな解釈はただのバラバラな印刷になるだけだ。吉田は言う。工場ではひと同士が信じられなくなることが一番危ない、と。

■02:印刷という現場

「以前、印刷現場は3Kといわれて定着率が悪かったが、この数年前から希望者が増えてきた。毎年5名ずつ新人がはいってきていて、定着もよくなってきた」

吉田は、その理由を自分の体験に照らしてこう言う。

「就職して、ベルトコンベヤーにせかされて朝から晩まで同じことをやるよりは、印刷ははるかにおもしろいと思った。個人のセンスが問われるからね。機械は発達したが、まだまだ手作業の比重は高い。悪く言えば、いくら同じにしたくっても同じにならないのだからね。アカをマイナスしてくださいというのは、アカをマイナスすればよいのか、キとアイを多くして相対的にアカを弱めればよいのか、いろいろな判断が成立する」

印刷は入りこんだらたまらないですよ、と笑う。

「若者にいかに早く仕事を好きになってもらうか。みんながみんな最初から印刷が好きだというわけではないのも確かだが、やはり印刷を好きになってほしい。そのためにも、いろいろな印刷物を数多く見せたい。海外で刷ったもの、さまざまな国の紙、いろいろなインキ……。印刷会社にも現場用の図書館が必要だね。刷り上がりを見るための印刷物図書館を各社が共同で造ったらいいのじゃないかな。世界中の印刷会社で印刷したものを一堂に集めて誰でもが見られるようにする。現在では、凸版の社内でも各課がバラバラに保管しているのが実状。ベテランから若いのまでが、眺めながらああじゃないかこうじゃないかといっしょに話ができるようにしたい。凸版一社の定着率を考えるのではなく、多くのひとに印刷を好きになってもらわないと」

製版や印刷がいくらコンピュータ化されても、ひとの出番はきっとある。そのためにもすぐれた印刷の力を知ってほしい。

「印刷そのものを教えることも大事だが、トップがきちんと怒らないとダメ。なあなあでやったら若者が定着するかといったらおおまちがい。ダメならダメだとはっきり指摘しますよ。それで、ほめるときはほめないといけない。めったにほめないけどね、わたしは」

怒られて、仕事の楽しみがひとつずつわかってくる。人間は、いい意味での刺激を与えられなければいけない。その刺激は、自分の願望とはじめはちがっていてもよい。そのうちに、こうやったらよい、ああしたらばと、自分で考えるようになる。こう刷れるのかと気づいたとき、吉田は印刷が自分の仕事になったと言う。

「そのときは立場立場で全力を尽くす。お客さんの注文も聞くし、自分でももう少しこうしたほうがよいというように考え抜く。これでなければダメですよ。そうやって、自分で思い入れることがわかって、印刷がおもしろくなった」

自分としての欲があるから、印刷人でありつづけられる。

「本当に厳しい要求に応えようとして応えられるのは、百人中十人くらいかな。現場での仕事というのは、単なる足し算ではないから、すべてを教えていけるものではない」

「好きだから大変な道を選んでしまう。私は定規上の男じゃないんだね」と笑いながら、「口は悪いけれど私は素直ですよ」と言えるのは、ひとの能力を信じているからだろう。

「印刷現場も、集中しなければいけない労働時間が長すぎるのかもしれない。人間、集中できる時間には限りがある」

能力はプラスにはたらくときもマイナスにはたらくときもある。刷る人間の解釈が介在してはじめて印刷物ができあがるのだとしたら、集中力をいかに高めるかはだいじな課題だ。刷る人間の解釈が問われるのが、意外と重版印刷のときなのだそうだ。

「重版では、初版よりよいものがあがるはずなんだけどなかなか刷れない。この現実は重い。初版はリハーサルだと思えば、重版では絶対によくなる理屈だし、データだって残っているんだから、それでもできにくい。刷る人間のボルテージが下がるという側面もあるのだろう。初版を刷ったのと同じ人間が刷るのが理想だが、部数も少なくなるし納期もきついことが多いから、ひとも変わるし機械も変わってしまう。ひとによるちがいは大きいね」

重版印刷は予備紙(試し刷り用の紙)が少なくなるからどうしても安全を考えてしまうのだろうという指摘もする。

「初刷りが仕上がったあと、これで作家やクライアントは満足したのか、二刷りはどうするかを社内で自主的に話し合っておかないと、よい二刷りは仕上がらない」

出版元やデザイナーにも責任はある。

「初版では印刷立ち会いに来られても、重版ではまず見えられない。一回でも来てもらえると現場のボルテージのためにも良いのだけれど」

自分自身、重版の刷り出し立ち会いにはめったに行かない。

「製版フィルムから素直に刷ると、初版のようにならない、というケースも多い。がんばって初版をよくしすぎた。初版と同じ努力をしない。刷版データは一応残っているが、そのままやると時間がかかる。つい能率を考えて手間を惜しんでしまうということがないとはいえないね。裏付き(紙の裏面に、下の印刷物のインキが付着する)しなければよいと思って単純に盛りを押さえてしまう、なんてこともあるだろうね」

「原稿無しだったら、同一ポジフィルムでちがう印刷は出現し得るだろう。おもしろいと思う」という吉田発言は、重版印刷の実状を物語っている。重版に原稿がついていることはまずあり得ないからだ。

「特色の番号や色チップは、重版以降ではついてまわらないことが多い。刷られたものを見て色を出すことになるからどんどん変わっていく」

それでも吉田は希望を捨てない。初版より重版印刷のほうが良いことも、またあるからだ。

■03:100%のこと

「印刷以外のことはあまり知ろうと思わない。製版なら製版、製本なら製本、それぞれの専門家が全力を尽くせばよいのではないか。前と後をしっかりやってくれよ、と。そのかわり、印刷のことはまかせてもらう。だから、製版者に印刷立ち会いをしてもらうことはあまりない。自分が製版したものがどう印刷されるのかという興味できてもらうのは歓迎するけれど、ここの責任者はわたしなんだというのははっきりしたい。自分たちのOKは自分たちで出す、そのくらい気持ちをしっかりもたないと。製版やADのひとがくると、印刷現場はどうしても責任のがれというか、いうことを聞いてしまう傾向がある」

いっぽうでは、「ひとは神様とはちがうのだから、謙虚な気持ちをもちたい。絶対はないから」とも言う。自分も絶対ではない。

「全部を100%のできばえでいこうとしてもうまくいかない。しかたなく85%でいくものもあって、条件が許せば120%のものを生みだす努力をして、ならしてみると結果的にほぼ95%の出来映えというのが現実的なところですね。全部を120%にできないのかと言うひともいるし、全部を85%でいいから能率を上げろと言うひともいる。どちらも無理がある」

85%もあり120%もあって、全体に100%に少し手の届かない95%かなという自覚をもつこと。

「ひどいものもあってよいものもあっておお互いが照らしあう。全部が120%はありえない」

せいぜい95%だと思うことで、100%への意欲もわくのだろう。ゆらぎのなかで生きていくこと。でこぼこがあって人間なのだ。

「何度も言うようだけれど、できばえの80%は製版で決まる。印刷は残りの20%をうけもっているにすぎない。しかし、どちらかというと悪い意味で50%も60%も出来映えを左右してしまうのが今の印刷ですよ。機械はよくなったともいえるけど、回転が高速になった分、インキの着肉コントロールがしにくくなった。オペレータの見る目の問題もある。コストを気にして材料や予備紙に制限が加わるようになったせいもある」

現状への認識はきびしい。

「刷り直しの判断はむずかしい。刷り出し点検係がまず責了紙と見くらべる。問題がありそうなのは課長やわたしが相談に乗る。紙代はこちらに負担になるから大変だが、刷り直して間に合うのはまだいい。間に合わないのはそのまま行くしかない。これはつらい。積み重なると信用や意欲に関わってくる」

話しているうちに、読者は、見当ずれにどのくらいクレームをつけられるか、はたして返本できるのだろうか、という話題になった。印刷において見当はどのような位置を占めているのだろうか。

「見当がずれたら色味も変わってくる」

見当ずれは、印刷の根幹を揺るがすということだ。

「浮き世絵では、髪の毛一本一本の見当が命だ。でも、絶対的な見当はないというのも事実だ。許容範囲がある」

ここにも、ゆらぎがある。

「立体印刷は、100の3ミリまで。それ以上ずれたらヤレ(品質基準を満たさない印刷、ゴミと同義)になる。ほかの印刷物では、とんぼの三分の一が目安といわれている。とんぼの幅がだいたい100分の10ミリだから、100分の3、4ミリということになるかな」

ポケットのなかの使いならしたルーペに手をやりながら「見当ずれのチェックのために、ちょいちょいアミ点をルーペでのぞく」という。あちこちの塗装が剥げかかっている。

「印刷で、トンボの見当あわせは基本の基本だけれども、最後は絵柄で合わせる。最初はエッジがあっているか、次は白いところの色味の偏りを見る。アミ点がずれると、黄色っぽくなったり、赤っぽくなったりする。見当がずれると本来見えてはいけないアミ点が見えてしまう。見当があっていれば、最小アミ点が集合して白さがすっきりと出るはずだ」

聞いていると明快だが、実際の見当合わせは気を使う作業のようだ。

「各色版とも、圧がかかって紙が伸びる。だから、とんぼは同じでも見当があわない。ファンナウト現象というのだけどね。伸びかたは、紙の厚さによってもちがう。一般的には、紙が厚ければ伸びにくいし見当は合いやすい。薄ものは大変ですよ」

まだ老眼になってない、と語り、見当も最後は肉眼だね、と断定する。

「高精細線300線ともなるとマンセンみたいなものだから、見当はきびしいし、それを見る目も要求される。ふつうに見たら見当が合ってるのかずれているのかを見逃してしまう。技術的には、600線、800線といった細線は可能だが、見当を見る人間の目がついていけるかが問題だ」

見当があっているかいないかの絶対的な基準はない。

「結局は人間の目だということになる。せっかく600線でやっても、アミ点がアミ点の大きさの半分ずれたら、解像度は300線のレベルまで落ちてしまうことになるから、なおさら見当があっていなければ意味がない。そういう矛盾があるな。300線だから楽、見当がずれてもわからないから、というのでは話が逆ですよ。少しでもずれたらとたんに甘くなるんですよ」

製版の技術革新がすすんで、見当合わせはさらにむずかしくなっている。前にも増して肉眼の比重が高まっているというのは皮肉だ。「同業者でもデリケートな見当ずれがわかるひとはすくない」ということばから、眼を鍛えることの価値がわたしたちにも少しわかってくる。

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