テキスト・アーカイヴ
■写真製版を歩く[2] LIVE PICTUREを探る(初出:会報33号)
たとえばAdobe PhotShopでは、使用サイズをかなり厳密に決めてからでないと作業にかかれない。Live Pictureでは、無制限ではないが、引伸ばし機を上下させて倍率やトリミングを決めるような自由さがある。拡大縮小に強い。これでよしというところで、編集作業の記録として保存されている関数が実データに働きかけ、画像が変化する。ビルド(build)と呼ばれるこの工程によって、画像情報ははじめてピクセル化される。情報はビルドによって大きさを与えられ、実在する映像となるのだ。拡大時には、データ間がぼかしの技術で補完されるので、全体に自然に見える。

カラーポジフィルムを高倍率のルーペでのぞくと、色素が複雑に絡まりあっている。アミ点やピクセルのように格子状に色素が並んでいるわけではない。Live Pictureでは、ビルドの直前まで、色素が不規則に積み重なった画像情報のままで保存するために、色のなじみがいい。ぼけやにじみを切り捨てて整理してしまわない。「写真的」ソフトといわれるゆえんだろう。

画像情報に操作を加えたものが画面に見えている。その操作は関数として保存されている。情報と見えているもののあいだに数学的アルゴリズムがはさまれている。画像をどう運動させたかを、ベクトルで記憶しているといってもいい。FITSテクノロジーは、元画像と変化した画像に橋を架けている。Live Pictureは、中間にあることを引き受けることから始まったアプリケーションなのだ。購買層を、プロとアマのどちらに絞るべきなのか。あるいはどちらにも絞らないでシェアが確保できるか。現状では、Adobe PhotShopのような広がりをみせてはいない。

「継続性の復活」をめざすLive Pictureのこれからも続く試練は、RGB各色の濃度を表示する数値にも顕在する。Live Pictureは、ほかのソフトウェアより広い濃度域で作業可能なシステムであるにもかかわらず、どのカラーフィルムで撮影された写真も一律に256階調の数値に置き換えてしまう。狭いレンジの写真も広いレンジの写真も同じように256の目盛りのなかに納める。256という統一した尺度はアマにはわかりやすいだろうが、原稿の個別情報を読みとろうとするプロ製版者には不満が残る。

「現在のスキャナーの現場がそこまで考えてますかね」と石塚は嘆く。

写ってしまった、撮れてしまったフィルムを、スキャニングできてしまう分解ロボットが片端から処理していく。コダクロームとE6処理系のフィルムとの分解を変える余裕はない。こだわりをもつクライアントや版元やどれくらいあるか。一次原稿(風景、実物体、商品など)が固有している濃度域は、カラーフィルム、デジタルカメラなどでは記録できない。だから適正露出という概念があるのだろう。撮影フィルムでもっとも高い再現性をもっているコダクロームでも最大濃度は3.5〜3.8くらいだ。E6処理系だとおよそ2.9〜3.2になる。これらの圧縮された情報量を二次原稿としている印刷システムでは、さらに一段と圧縮がかかり情報量は減少する。

メディアがもっている条件をバネにして高度な表現を獲得するためにも、正確な濃度情報は保持しておきたい。プロから見れば、スキャナー(あるいはデジタルカメラ)で入力されたデジタル情報の最大最小濃度値を正確に表示すべきである、ということになる。フィルムの濃度管理を続けることによって、フィルムメーカー、現像所の実体が見えてくるはずだ。多くのデザイナーやカメラマンは、カラー濃度計で色彩管理しているわけではなく、自己の感覚に頼っているのが現状ではなかろうか。256という統一した尺度はアマにはわかりやすいかもしれない。しかし、256の表示はその場かぎりの数値であり、ほかのシステム、たとえば高性能スキャナーとは互換性がない。わかりやすいほうがいいのか、プロが日常使っている数値にそろえるべきか。「お絵描き」のレベルにさせないためにも、原稿作成の管理を進めるためにも、Live Pictureの最大最小濃度の表示を考えなければならないだろう。

「現状での入力デバイス環境が8bit×3の24bitなので、48bitを生かし切っていない」

Live Pictureは性能的には48bitを処理しうるが、周囲のレベルに合わせざるを得ないと渡邊は語る。ここでも、中間にいるLive Pictureを見つけることができる。中間とは、中途半端ということではない。両者を交通し、結びつけることができるもののことだ。

プロをアマへ継続させるのか、アマをプロに継続させるのか、どのレベルのプロを想定するのか。「継続性」とは、現状への継続なのか、あるべき姿への継続なのか。さまざまな分かれ道の交差点にLive Pictureは立っている。写真家に使ってもらうのか、デザイナーをターゲットにするかの分岐もあるだろう。Live Pictureをとおして、幾多の道が見えてくるといってもいい。どの道を行くかで、マニュアルの書かれかたも変わるだろう。現在の低価格版Live Picture のパッケージに同封されているユーザーガイド、クリエイティブガイドを一読しただけで画像を開くことのはむずかしい。今までの常識を破ったソフトだからこそ、ていねいなチュートリアルの同封が必要だ。

「デバイス・インディペンデントの功罪がある」と石塚はいう。

かつてのように、工場や研究所に一貫した巨大な設備を設置するのではなく、各人が比較的手ごろな価格の機器、記憶装置、プリンター、スキャナーなどをそろえる。バラバラに買い求められた機器をつないで仕事ができる。古くなれば単体で買い換えればいい。ダウンサイジングの原動力だ。独立した機器間を、フォーマットにのってデータが行き来する。データが行き交うことと、品質が保証されていることとは違う。「色補正の責任を誰がもつのかわからない」状態となりかねない。ピクセルにビルドしたあとの最終出力形態にさらなる多様性がほしいし、さまざまなメーカーに対応できるフォーマット形式を整えてこそ、より多くのユーザーに応えられるのではないだろうか。そのときLive Pictureは中間を全うすることになる。

「時間短縮が、技術の低下の原因にもなっているわけでしょう」という渡邊のことばは、いろいろなことを考えさせる。時間短縮をしつつ技術を低下させないために新しい技術が導入されつづけてきた。修正・合成・拡大・縮小が短時間でかつローコストで行なわれることを要求されている。多くのオペレーターにストレスが溜まる要因である。Live Pictureでの作業は高速だ。高性能な引伸ばし機でプリントがいとも簡単に行なえるような、プロが使いうる速度を持っている。時間短縮をしつつ、技術の低下に歯止めがかけられるのか、使い手の意識が問われる。

ネガフィルムそのものは、大きさを指示しない。伸ばされトリミングされる行為によって、ネガフィルムは運動を始める。白黒写真を焼かないカメラマンが増えている。カットを選ぶことなくカラーポジフィルムをまるごと編集者に渡すケースも多い。未現像で渡すのもざらだ。モノクロ写真のほうが手間がかかるのに、原稿料はカラーより安いこともあるときく。写真という行為はいつ終わるのか。シャッターを押したときに終わっているのか。大きさを決め、平面上に配置されなければ終わらないのではないか。ネガやポジと、平面に投影あるいは印刷された映像との中間に、写真という運動がある。Live Pictureの中間は、写真の行為に重なりあっている。その中間は、撮られたデータと表現されたデータのあいだにあると同時に、プロフェショッナリズムとアマチュアリズムの隙間にも立っている。Live Pictureによって、写真家はもう一度ダゲールに戻ることができるのかもしれない。

現在はMacintosh版だけだが、近くWindows版も発売されるという。新しいヴァージョンの発表のために来日したジョン・スカリー氏(Live Picture Inc.の社長兼最高経営責任者・元アップルコンピュータ会長)は、次のようなことばでスピーチを始めた。

「毎年、世界中で590億枚の写真が撮られている。そのうちの2%が目的をもって再利用されている」

590億枚の2%は、約12億枚だ。12億枚が多いのか少ないのか、会場の喧噪にまぎれて聞きとれなかったが、少なくとも12億枚は、大きさを与えられ平面上に配置されたということだろう。その一枚一枚が印刷などの複製技術によって何倍に増やされたのかはわからない。100万倍の感度、12億枚の前で、写真術がみずからのふるえを確認するべきときがきている。