テキスト・アーカイヴ
■『無限抱擁』まで 本橋成一インタビュー(初出:会報33号)
『無限抱擁』は、現代を生きる本橋氏の主体が、チェルノブイリと独自の交感をした上に成り立ったものだと思う。その撮りはじめを本橋氏は次のように語る。

本橋:「最初はぼくもチェルノブイリの現象というか、その事故というものを頭でとらえていたんですが、たまたまチェチェルスクという170キロ離れている汚染地区に行ったとき、それまで「核の大地」というテーマで頭の中でずっと空回りしていたものが、突然「いのちの大地」というテーマで鳴り出したんです。……どこの村へ行ったって、電気製品なんかほとんどないし、洗濯機なんかももちろんないんです。そういうところが汚染されるという矛盾。それで彼らは声高に叫ぶわけでもなんでもないんです。ただ、じっといのちの繰り返しでそれに答えている。すごいですよ。運命的に受け入れている。チェルノブイリということばはニガヨモギという意味なんですね。旧約聖書にあると聞きました。呪われた町としての名前です。……ひょっとすると彼らはこのことがわかっていたんじゃないか。天災に近い形で受けとめている。人間の愚かさというか、その役目を受け持ってしまったと」

それがチェルノブイリが本橋成一の写真になるかならないかの瀬戸際だったと思うのだが、「核の大地」のお仕着せを嫌い「いのちの大地」を待っていたところにその主題が立ち現れたと言っては少々意地が悪いだろうか。我が意を得たりとばかりに感動したという本橋氏のことばを聞いてそんなことを思う。ただ、すぐに本橋氏のことばを反芻して、氏が尋常ならざるものを見たことに思いを致す。それは「いのちの繰り返し」ということばに象徴されるものだ。

人間の絶望と希望とがないまぜになった複雑な表情を『無限抱擁』に見た気がしたと前に書いたが、その希望が「いのちの繰り返し」であったことにいま気がつく。それにしても「いのちの繰り返し」ということばは重い。それはチェルノブイリがいのちの終わりを象徴することによって際立った印象だと思うのだが、このような事態に直面して、人間はそれ以上の答えを用意し得るのだろうかとやがて思ってしまう。それは事実上かろうじて絶望に向かおうとする感情を踏みとどまらせる「観念」に過ぎないのかも知れないが、ただじっと日常を繰り返すサマショーロ(聞き分けのない人々)の姿はその「観念」の危うさなど軽々と拭い去ってしまえるほどに強靭で、真実チェルノブイリ=「核の大地」に絶望しつつあった本橋成一にとっての救いだったのだろう。

本橋:「どこかで精神的なものがどんどん進んで、肉体的なものが追いついていかないというのが、今の時代の現象ですよね。ぼくは、前から言っているんですが、人間が100とすれば、49.99……%は心であっていいけれども、50%を超えてはいけないものだと思っているんです。そして、50.00……1%は、いのちあるものでなければならないと、そういうことがだんだんわからなくなってきている気がします。どこかで、いのちあるものに対する謙虚さというものがすっ飛んでしまっているから、みんな突拍子もないことを考えてしまっている」

チェルノブイリによって出来した事態を「運命的に受け入れている」サマショーロの姿とは、土に生きる人の諦観の姿であろう。土に生きる限り、人は常に受け身であらねばならないからだ。文明による働きかけをいかにしても、収穫は最終的に土にゆだねられる。その人生は、齢を重ねるとともに諦観の姿勢をつくり出す。何事をも運命的に受け入れるのが彼らの形なのだ。それは畏怖の形でもあるのだが、文明に与する側の人間はしばしばその感情を忘れてしまう。

人間の半ば以上は肉体的なものでなければならないとする本橋氏の主張は、いま書いたようなサマショーロの姿勢に通ずるものであろう。「核の大地」のテーマを嫌い無意識に自分のテーマを探っていた(「頭の中でずっと空回りしていた」)という本橋成一は、そのとき表題的なテーマを超えた形而上の領域で求めるものを写真にしようとしていたのかも知れない。

本橋:「たまたまぼくがいい時代だったと思っているのは、『やり直し』ですべてが消えてから始まる時代だったんです。ぼくは物質に関してはゼロに近いものを知っているんです。物質に対して精神的なものがくっついていたんですね。ぼくだって精神的なものが先に行くことはあるんですが、やっぱり根底にはいのちに対する意識が養われていたんですね」

インタビューの途中、本橋氏はまだ公開していないという膨大な量のプリントを見せてくれた。それはあからさまな屠場の光景とそこで働く人々の多彩な表情をとらえた作品だった。その写真の一枚一枚を示しながら、屠場で働く人々がいのちというものをいかに尊重しているかを語った。そして再び自らの少年時代のこと。

本橋:「ちょっと話は飛びますが、バラック建てでうちの親父は何をしだしたかというと、鶏を飼いだしたんです。それが我が家の、私が小学生の時の貴重な蛋白源ですよ。十何羽かいました。餌をやるのがぼくの担当だったんですが、鶏にはみんな名前をつけてました。

雌が卵を産む、雄が孵ればある程度育ててつぶします。卵を産まなくなった雌はつぶします。ひと月に一羽か二羽か絞めるんですが、うちの親父は必ずぼくに立ち会わせたんです。それで今日はあれをつぶすのねとか言って絞めるんですが、食卓に並ぶとそれこそ骨までかじりました。ちょっとでも肉がついていると、お前はあんなにかわいがっていたんだからちゃんと食えって言われて。

人間、せめて自分で食べるものぐらいは自分の手で殺すことが原則じゃないかと思ったんです。それが愛情だという気がします。ぼくが小さいときに親父が見せてくれたことはなかなかよかったんだなと、その時はわかんなかったんですが、今になってみるといい教育だったなあと思って。そういういのちと面と向かって過ごせましたから。そういうことがどんどんなくなっちゃって、いのちにベールが被せられていったんですね。そういう意味でもちょうどぼくの時代がよかったんだなあと思います」

「いのちあるものに対する謙虚さ」ということばは、そのまま『無限抱擁』のサマショーロに向けられた本橋成一の眼差しに通じると思う。子ども時代を回想して語ることばの内には、その眼差しを確かなものと信ずる意思が横溢する。ここで語られた子ども時代の「経験」は、本橋成一が写真家としての歩みを重ねるにつれて深化したものに他ならないが、そうであるとすればサマショーロの見せた「いのちの繰り返し」の姿は、彼にとって救いであっただけでなくその信念を具現するものでもあったのだろう。



写真の受け手として最初に『無限抱擁』のサマショーロを見たときには、科学文明を信奉する者の欺瞞と農民の無知なるがゆえの強さといった単純な対比をまず思い描き、その次にその農民の命運を思い、さらには科学文明の恩恵に浴しその無軌道な増大をついには抑止し得ないであろう人類の命運までをも想像し、「因果応報」という流行りの宗教めいたことまで考えた(白状すれば『無限抱擁』とは「夢幻泡影」のアナロジーかと皮肉なことまで考えた)。その感覚をいまだに捨て去ることはできないが、しかしその感覚はあまりにも傍観者的だと今となっては思う。それはある意味で客観にすら徹していない態度ではないかと思うのだ。そしてこの際、客観に徹するということはもっと厳しい位置に身を置くことではないのか。

本橋氏を訪ねた頃、新潮社から東松照明『長崎〈11:02〉1945年8月9日』(フォト・ミュゼ)が出版された。継続して撮ることの意義を自ずから示す力作だ。この本の末尾に「核時代のキリスト」と題された一文がある。

「長崎では、『受難』という言語表現がよく用いられる。ユダの裏切りによって磔の刑となったキリストに由来する宗教言語である。信仰をもたぬ私にとっては馴染みの薄い言語である。が、しばらく長崎にいると、なぜかこの地にふさわしい表現のように思えてくる。そして、被爆者と向き合う私は、祈るような気持でシャッターを切るようになる。被爆者は世紀末の神、つまり核時代のキリストなのかも知れない」

「受難」とは、キリストの死によって人類の罪が救われるという神との契約を意味することばである。被爆者はいささかのセンチメンタリズムも交えずにこのことばを使ったのだと思う。敬虔なキリスト教徒である被爆者は、己が命運を引き受け、それと引き換えのはずの人類の未来を信じ「受難」と言ったのであろう。それは希望を込めたことばであったはずだ。

核にまつわる悲劇は、結局、いつの場合も人知をはるかに超えてしまうが故に、あらゆる宗教的な比喩で語られるしかないのかも知れない。しかし、とりわけ現代においてそれが許されるのは、癒されることの必要な当事者だけでしかないだろう。当事者でない者がそのことばを使うことは、悲劇を合理化し、現実を直視することを避けるための方便でしかあるまい。

忌憚なく言えばそのとき本橋成一がその意識のありようとして客観に徹していたかどうかは知らない。ただ彼はどうしたって客観の立場でしかあり得ない自分自身を痛感していたと思う。『無限抱擁』には同情や告発といった情緒的なトーンの写真は見えない。ただ彼はそこに生きる人々の、やがて死すべき運命にあるそのいのちの尊厳だけは守ろうとするかのように、当たり前に繰り返される日々の暮らしを誠実に写しとった。そしておそらく彼は、その場所でかろうじてできることをやったのに過ぎないが、「核の大地」では語れないことを「いのちの大地」の主題によって語らせた。それが『無限抱擁』の成功だったのだろう。
(1995.10.20)