テキスト・アーカイヴ
■『無限抱擁』まで 本橋成一インタビュー(初出:会報33号)
ふたたび「痕跡のある写真」ということばに思いをめぐらす。「痕跡」とは、言うならば、写真に残る「私」――「私」を写真に残すこと。本橋氏が言ったのはそのあたりの意味であろうか。何とはなしにそんなふうに考えたところで、中平卓馬『決闘写真論』の挑発的な記述を思い出した。しばらく読み返してみる。

「〈主体〉であるとわれわれがかってに思い描いているものは、実は、歴史的、社会的複合体である。その意味で〈私〉は歴史によって社会によって侵犯されているのであり、(略)〈私〉はただ歴史の〈主体〉であるにとどまらず、また歴史の〈客体〉でもある。〈私〉をすすんで崩壊させ、再び新たなる〈私〉を創造してゆく、そのような無限の運動としてしか〈私〉〈主体〉などというものはないのだということである」

「オレはオレであるといった意識は一見依然として有効な原点であるかに思える。だが、この日常感覚としての自意識は、歴史への眼差しと分析を欠落させた上でかろうじて成立する形骸であるにすぎない。(略)現代社会はすでに個をずたずたに引き裂いてしまっている」

「それも(略)意識産業が操作し提供する情報の氾濫によってだけ個が解体されているのではない。われわれの生活をとりまくあらゆる商品の形をとったもの(略)要するに現代のテクノロジーが『豊かなる社会』に提供する『成果』のすべてがわれわれの存在に浸透し、個の分解を促進するのだ」(「個の解体・個性の超克(1)」)

一九七六年の一年間、篠山紀信の写真に中平が文章で応じるという形で「アサヒカメラ」に連載された「決闘写真論」は、後半に至っていま引用したような「主体」というものに対する予見に満ちた分析と批判とを鮮明に打ち出す。

今日、それこそ「テクノロジーが『豊かなる社会』に提供する『成果』のすべてがわれわれの存在に浸透」することを受け入れ、そればかりか生活のあらゆる局面で他者との比較にさらされ自己というものを徹底的に相対化せざるを得なくなった意識からすればもはや歴史的とすら言える記述であるが、しかしこの文章は「私」「主体」というもののあり方を考える上で未だにその効力を失っていない。それは「〈私〉をすすんで崩壊させ、再び新たなる〈私〉を創造してゆく、そのような無限の運動としてしか〈私〉〈主体〉などというものはない」という記述の正当性においてである。中平は別の箇所でこのことをやや具体的に言い換える。

「自己を相対化すること、私だけを本質的であると考えることをやめ、世界と対話を始めることがわれわれの課題なのだ。世界との対話、それはみずからを世界に投げ出し、世界に身をゆだねること、世界にわが身を凌辱させる勇気と、それを乗り超えて新たな自己を確立する覚悟をもつことである」(「個の解体・個性の超克(2)」

 「主体」というもののあるべき形はこれらの表現にほぼ尽くされていると言えるだろう。

ところで今日、先に中平の記述を「歴史的」と言った感覚からすれば、これらの表現を参照するには、その前提とするところに若干の修正を加えておく必要がある。それは「主体」というものの一般的なあり方が中平の時代とは相当に変質しているだろうからだ。中平もその危惧は脳裏にあった。

「私は〈主体〉〈個性〉なるものは現実にはもはや存在しないと言う。だが、あるがままの世界、個を解体し、〈主体〉を切りさいなむ現実のメカニズムにただ翻弄されるにまかせよなどと言うつもりはない」(「個の解体・個性の超克(1)」)

むしろ今日の「主体」は「現実のメカニズムにただ翻弄される」状態にあるのではなかろうか。しばらく極端な言い方をするが、「主体」は今日、圧倒的な分量で供給され続ける物質・情報の前に、ともすればその「意識」をも喪失し、ひたすら新しい物質・情報を取り入れ、古くなったそれを排出することだけにエネルギーを費やす機関と化したような面がある。その意味で「私だけを本質的であると考える」意識を云々する前に、そのものが「ない」という病的な事態になりつつあると言えるだろう。だから、中平はそうした頑迷な主体意識を捨てよと言ったが、今日はそれ以前にまず主体意識(自意識)そのものをしっかりともつことを期待しなければならないだろう。その上でさらに十全な「主体」を期待しなければならない。

話がかなり横道にそれてしまったが、いま写真(と言うより表現一般かも)においても、十全な主体、言い過ぎならば健全な主体でもよい、その主体によるしたたかな表現が望まれると思うのだ(これまでの文脈からすればそれは少数派のように読めてしまうが、実際にはさほど少なくはないだろう)。そして、中平の時代、それは「捨てる」ことから始まったが、今日それは「選択する」ことから始まるように思う。

いま十全な=健全な主体といったものをイメージすれば、それは流動的で、輪郭も定まらないまま存在するようなものであるだろう。言い方を換えれば、それは一点に向かって収斂されるようなものではなく、ある幅をもった軌跡のような形で生きる限りあり続けるものというような。その軌跡は過去から現在に至るまで数多くの物質・情報の中から自意識の選びとったものの記憶の連なりであり、可遡的で、その幅も一定しないというようなものではないかと思う。そしてそれは、中平の用語を借りれば、「歴史」=時代によって「社会」によって「侵犯」されていることを当然のように自覚しながら、不断に自己を相対化しつつ、しかしその自意識(の選択)によってあくまでも自らが個別の存在=主体であることを確認し続ける。「新たなる〈私〉を創造」する、「新たな自己を確立する」「無限の運動」は、今日そのようにして実践されるのではないかと思う。

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