テキスト・アーカイヴ
■『無限抱擁』まで 本橋成一インタビュー(初出:会報33号)
「写真の成果」などという大それたことばを写真の会の表彰状(第7回写真の会賞)に使ったが、写真とはこのような仕事をなすべきものというはっきりした考えがあってのことではない。自分自身がマスコミと呼ばれる組織の片隅に身を置きながら常々思うのは、マスコミの言語はとどのつまり日々に新たなバーチャル・リアルを産み出しているに過ぎないということだ。

マスコミ人にいわゆる知識人が多いことがおそらくその最大の原因なのだが、「経験」を伴わない知識の組立になる言説を現実、時には真実として流布させる。言い方を換えれば、マスコミにおける現実は非常にブッキッシュ(机上理論的)なあり方をしている。そのブッキッシュな現実感覚によるブッキッシュな情報発信がマスコミの日常と言える(今日、情報産業と人間の心的作用との関わりを考えた場合、こんな一面的で素朴な記述が可能なほど状況は単純ではなかろうが、それを言うのが目的ではないのでこれにとどめる)。

「写真の成果」と言ったのは、そういうブッキッシュなマスコミ報道と異なり、一人の写真家による彼の感じた現実の報告と彼の信じる真実の報告とが、信用に足るものだと思ったからだ。それに写真は、例えば音声を伴ったTV映像などと違って、説明的な言語を受け手の好むと好まざるとに関わらず性急に植えつけようとするものではなく、受け手の側からのアプローチがない限り基本的に何も語らないという、写真のもつ性質もこの場合プラスに働いたと思う。

もちろん撮影者にしても受け手にしても何らかの先入観から自由であることは事実上あり得ないが、撮影者の意図が受け手の想像力を俟ってようやく成就する「写真」の局面において、『無限抱擁』は非常によくそのメッセージ性を発揮していたと思うのだ。簡単に言えば、それはまずチェルノブイリを報告するのにこういう形があったのかという率直な驚きをもたらしたし、やや突っ込んだ言い方をすれば人間の絶望と希望とがないまぜになった複雑な表情を写真集の総体としてよく表現し得ていたと思うのである。



本橋:「ぼくは一九四〇年生まれですから、ちょうど五歳のときに敗戦をむかえたんです。子ども時代は、ともかくよく映画を見に行きました。アメリカ映画です。小学生が映画を見に行って何が楽しみだったかというと、食べるものとか、テレビとか、洗濯機とか……。そういう物質に対するあこがれみたいなものをもって映画に行ったんですね。ところが、それから五、六年追っかけるようにしてわが家にもどんどん電気製品が入り出した。日本中がどんどん追っかけて来た。ぼくの育った時代というのは、何もないところから、物質文化というか、物がどんどん増えて豊かになった、そういう時代でした」

インタビューとは別に、本橋氏から「痕跡のある写真が撮りたい」ということばを聞いたことがあった。なにか写真家としての本音の部分を聞いたような気がして記憶に残っている。それは写真にあらわれる写真家の個性のようなものであろうか。であるとすれば、いま生い立ちから語る本橋氏のことばの中にその「痕跡」の意味するところも見えるのだろうか。続けて本橋氏は語る。

本橋:「そういう中学、高校時代を過ごして写真学校に入ったんですが、その写真学校の卒業制作でドキュメンタリーをやろうと思い、筑豊へ行ったんです。そのころ、筑豊がどんどん閉山になっているという暗いニュースが流れていて……。もちろん頭のどこか片隅には、それよりも七、八年前に出た土門拳さんの『筑豊の子どもたち』があったとは思うんですけれども……。そのときは、上野英信さんの『追われ行く坑夫たち』という、当時岩波新書のベストセラーになってた本があったんですが、その本に赤鉛筆で質問するようなことを書いて、写真機と一緒にそれを持って行ったんです。

当時はテレビも新聞も全部取材の時には上野さんの所へ行ってました。上野さんはそこに住んでらっしゃるし、本も何冊か書かれていたし、マスコミの人たちはそこへ行けばなんとかなると集まったんですね。それでぼくも行ったんですが、ぼくが違っていたのは仕事ではなかったことで……。そこで上野さんにどの高さというか位置というか場所でこのものを見ていくのか、ぼくの見る眼というものを暗黙のうちに問われたんです。それで卒業制作はそこそこできたんですが、それから五年筑豊に通ってできたのが『炭鉱』だったんです」

土本典昭「本橋成一の記録の世界」(『上野駅の幕間』巻末)に、次のような記述がある。

『彼に師とする写真があったか否かは知らない。ただ師とする人に上野英信氏があったと思う。筑豊に根を下し、坑夫として働いた時代から今日まで廃坑と離職者の流亡を見つづけてきた作家である。その凄絶さは近よりがたい。本橋成一は、その氏の宅に身を寄せ、そこからしゃにむに五年間の撮影に入った。写真家のスタートに当たって、当然のことのように上野氏の息の長さとその作風を学んだであろう』

繰り返し言われてきたことだと思うが、やはり上野英信との出会いが写真家として一人立ちしようとする青年に決定的なものをもたらしたのだろう。組織に属するのでなく独立して社会と向き合うにはより堅固な座標軸を持たなければならないが、そのときに信頼できる先達と出会うことは何にもまして心強いものだ。また、圧倒的な人物を知らない人間は、多くの場合その自意識の未熟によって、他人に対し説得的に語れるものを持てない気がする。「どの高さ…位置…場所でこのものを見ていくのか」という問いは、若い本橋成一に向けられたおそらく最初の真剣の刃だった。そしてこの時に上野英信からその問いを課せられた本橋成一は幸運であったと思う。

『炭鉱』のまえがきに上野氏が寄せた文章を引いておく。

「まる20年前、はじめて坑夫のひとりとなって入坑した日以来、私はいやというほど、石炭産業の底知れない暗黒の深さに戦慄しつづけてきた。もとよりそれは、特殊な一基幹産業の現象というより、日本の内臓そのものの暗黒の深さにほかならない。戦後民主主義の微光も、ほんの一時期、それもごくわずかに表層を照らしだしたにすぎない。現れかたこそ異なれ、およそ非人間的な収奪は、むきだしの暴力支配を基礎として、最後まで石炭産業の唯一絶対の支柱であった。とうてい信じがたいほどの無知と貧困と犠牲が労働者に強制され、文字どおり人間の生血をすすって肥大した石炭産業の上に、わが国の独占資本体制は構築されたのである」

本橋:「物というものにあこがれていて、物が増えて日本もいよいよ近代国家になったと思っていたところに炭鉱があったんですよね。そして上野さんの所へ行って、その炭鉱からドキュメンタリーを撮ろうと決意したんです」

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