テキスト・アーカイヴ
■写真を見る力とコレクション――白仁田剛写真コレクション展より(初出:会報47号)

【白仁田剛×深川雅文】

深川:それでは、白仁田さんのコレクションについての感想からお話しさせていただきます。白仁田さんがいろいろ集めていらっしゃるというのはもちろん存じ上げていたわけですけれども、その全貌を見るというのは初めての経験でした。 やはり、白仁田さんの写真に対する考え方が、これだけのコレクションになりますと明確に出てきていると思います。また、個人のコレクターの方でもいろいろなタイプのコレクターの方がいらっしゃるので一概には言えないのですが、とにかく自分の部屋の中を飾りたいとかいうふうな方もいらっしゃるわけですよね。広いおうちがあれば、インテリアの中に飾っておきたいというか、そういう方もいらっしゃるわけですけれども、そういうコレクターの方とは白仁田さんは大分違うというのが一つの感想ですね。

だから、もちろん白仁田さんというのが個人のまなざしで集められてはいるのですが、それがいわゆる単なる趣味的なものではない、「これ、きれいだね」というのは一つの出発点としてはあると思いますけれども、単に物を所有する、そして飾ると、それだけの喜びでこういう作家が集められたんじゃないだろうというふうな感想を僕は非常に持ちました。 そこら辺については白仁田さんもいろいろ言いたいことがあるんじゃないかと思うのですけれども。

白仁田:そうですね。基本として画廊で買っているから、プリントで買わざるを得ない。写真集は本屋に行けば買える。けれども、プリントとしてどういうものがあるかというのを探していって、集めた結果がこうなのですね。私は、余りたくさんの画廊を回るわけではなくて、一つの画廊で何回も個展をしている作家さんを見たり、あとは、その画廊に何週間か通って、話を聞いて、その作家の考え方を踏まえて買っていくのですね。 例えば、藤見道隆さんは、お話をしていて、あれ読んだ、これ読んだといろいろ言うけれども、全然わからない本の名前ばかりを紹介されて、そんなの読んでいる暇ないと言うけれども、僕今度貸すから読んでおいてとか、それでお話をしようと言われたりするのです。そして、原田正路さんであれば、突然後ろからやってきて、ちょっとお話でもしようやと言って話すとか、そういう作家さんもいます。あとは、そこの画廊にずっと座っていて、1対1でとことん話す作家さんもいます。

私の場合、ちょっと話がそれてしまうかもしれませんが、その画廊に来る作家さんではなくても、コレクターさんが私のほかにも何人もいるわけで、現代美術のコレクションをしながら写真をコレクションしていらっしゃる方がいるわけで、その方々とも話をして、この考えでは君の言い方はわかるけれども、これはわからないとか、そこを教えろとか、ずっと2人で考えたまま黙ってしまってとか、それを重ねながら集めていくのですね。 それでは逆に、川崎市市民ミュージアムの方では、若い作家さんというふうにおっしゃっていましたけれども、この作家は日本の写真の流れの中で必要な作家だと思って残していく作家さんは、例えばどんな方がいらっしゃいますかね。

深川:難しい質問だな。ちょっとその質問の前に、いわゆるプリントを集めるということですね。僕は、ミュージアムで写真を集めるということ、写真を美術館の中に集めるということ、これはやはり大変なことだと思うわけですね。それまで、絵画とか彫刻だとかを集める機関として美術館というものが想定されていたわけで、写真を集めるというのは、これはある意味で非常に大きな転換点であったわけですけれども、だから写真を集めるということ自体について、やはり自分なりに、理論武装じゃないですけれども、考えていかなきゃならないということで、オリジナルプリントについて書いたこともあるのです。 オリジナルプリントは、今ここに、見てもらえばわかりますように、これは最終的に物としてのプリントですよ。それはやはりもう作家の方たちが生み出す作業とかを端で見ていると、本当にある意味で命を削って生み出していっているようなものですよね。そういうものとして非常に重要であるというのが一つあると思います。

そうやって生まれてきたものから考える、さまざまな世界の広がりを感じたりする。そういう形で作品というのが生きていくわけですけれども、もう一つの側面として、だから一つは物として、ある意味での人間の精神が結晶化したものである、そういう意味で非常に重要である。これはそれこそ、確かに写真というのは複製可能だとはいいますけれども、そんなに幾つもできるわけじゃないわけですよ。それで考えると、逆に絵画との差というのはどこにあるのかというのをやはり考えさせられるようなそういう仕事です。

そういうふうに、オリジナルのプリントの重要さというのは一つ押さえた上で、だけれども、その価値というのは物としてのプリントの価値にとどまらないというところがあるわけです。だから、今ちょっとそちらのスライドの話のときに言いましたけれども、やはり作品がどういうふうな背景を持って、あるいは広がりを持っているのかというところ、そこに思いをはせることが非常に重要であると思うのです。 白仁田さんのコレクションの場合も、もちろん物としての写真を収集されているわけだけれども、やはりそこを基点にして広がっていく、コミュニケーションというか、いろいろな思索だとか、あるいは人間の関係だとか、そこまで含めてコレクションされているんじゃないか。そういうことでいけば、結構川崎市市民ミュージアムのコレクションと共通するところも実はあるんじゃないかという感じがしましたね。

白仁田:さっきのお話をもう一回繰り返すのですが、その中で、若手ではない、この人は残しておきたいという作家さんとか、思い浮かぶ方いらっしゃいますか。プリントであってもいいし、写真集でも構わないのですけれども。

深川:それは、どういうふうに答えようかちょっと悩んでしまう部分ですけれども、残しておきたいというふうな考えは、実はないですね。ないというか――重要であるというか、この人の活動を今伝えなきゃいけないということはあります。それが一つの引き金となって例えば展覧会をやったりするわけですけれども、でもある意味で、ワンタイムパフォーマンスというか、そういう側面が強いのですよ。まず僕がこの展覧会を企画する場合に、若手といいますか、新しい作家さんを紹介する場合に、コレクションとは全く切り離して考えているんです。切り離して、それで結果として収集をさせてもらうという場合もあります。でも、基本的には切り離しています。なぜ切り離すかというと、やはり自治体の税金でもって収集するわけですよね。それに対して、まさに僕らは学芸員として、専門的な立場としての責任があるわけですよ。その責任があるがゆえに切り離して考える。結果として、その作家が持続的に展開を見せていくというふうな、その後の展開があった場合に、それでは収集させていただきますというか、そういうこともあります。基本的にはそれは切り離して考えている場合が多いのです。

白仁田:皆さんに今回こうやって写真をたくさんお見せしましたけれども、ほとんどの作家さんを御存じでいらっしゃるという方はめったにいないと思うのですね。 それは何かといいますと、こういうふうに表現に向かっている作家さんが紹介される場所が少ないわけですね。画廊さんも少ない。東京の真ん中にあった画廊が東京の端っこに行ってしまったり、片方でつぶれてしまったり、活動を休止するところも出てきたりしているわけですよね。でも、作家はそれでも創作活動を続けているわけなんですよね。

私のコレクションのもう一つの考え方として、私の信条として、作家を支援する意味が私にはあるのです。別に私が買ったからといってパトロンになるわけではないのですよ。1枚買ったぐらいでパトロンになれたらだれでもなれると思うのですけれども、そんなことはないわけで、まず買うことで作家を知らしめたい、こういう表現の作家がいるからみんなに見てほしいという意味があるのですね。 日本には作家を紹介する場所が本当に少ないのです。画廊で辛うじてやっているという場合もあります。深川さんがやっている川崎市市民ミュージアムのように、いろいろな調査を続ける中で、作家さんを取り上げていただける場所も片一方であるわけです。 そういう意味で、作家を支援するということについて、川崎市市民ミュージアムとしてはどうなんですか。

深川:作家の支援と言えるようなことを、これは本当に予算的な面も含めてちゃんとサポートできればそれにこしたことはないのですけれども、なかなかそうはいかない部分があります。 しかし、だからそうなると、どういう面でサポートできるかというと、やはりふさわしい展示のチャンス、場所をつくっていって、それに対して、いろいろな文章とか書きながら、世の中に、うまくその人の仕事の内容を理解していただけるような、そういう一種の文脈をつくっていく、これがかなり大きな仕事になるのですね。単にこの作家がいいですよ、それでぽんと展覧会をしますという、外から見たらそういうふうに見えるところもあるかもわかりませんけれども、内部としては、作家を紹介するに当たって、こういう文脈をつくっていかなきゃいけないだろうとか、紹介の仕方に関してはかなり学芸員として考えに考えてやっているところがあります。 逆に言えば、そういう形でしか支援ができないということなので、そこも作家の方々には御了解いただきながら、こちらから協力してください、そういう立場ですよ、そして一緒につくり上げさせてください、そういうスタンスです。

白仁田:先ほどの川崎市市民ミュージアムの紹介を見て気づいたことなんですけれども、私はこうやって形としてのプリントを持ちますけれども、写真は、さっきいろいろな資料を深川さんから見せていただきましたように、複製される、ないしはいろいろな流通媒体に乗っていくわけですよね。印刷物、写真集とか、あとはいろいろなメディアとして、さっき「LIFE」の話が出ましたね、最近廃刊になってしまったのですけれども、そういうものの収集についてはどんな感じでしょうか。ちょっと御紹介いただければと思うのですが。

深川:僕は至極当たり前と思いまして、いわゆる印刷された写真の重要性というか、印刷された原本の重要性というものを考えていたのですけれども、ヨーロッパの美術館の人たちにこれを話すとぶったまげるのですよ。何でそういうものを美術館が集められるのかと。それは図書室に行くべきものであって、美術館に入るものではないのではないかというふうなことで、結構びっくりされたりしますけれども、話していくと、重要性というものを認識してもらうところがあって、何かそういうのを最近ドイツの雑誌か何かで紹介することになったそうです。川崎市市民ミュージアムのコレクションの方針として、印刷されたものを美術館に入れていくという重要性というものを、どこか、ドイツの雑誌で紹介するということを言っていました。

【「LIFE」の表紙】

これは「LIFE」創刊号の表紙です。オリジナルの写真というのはマーガレット・バークホワイトが撮った「Fort Peck Dam(フォートペックダム)」という有名な写真なんですけれども、もちろんプリントというのも重要ですよね。だけれども、いわゆるオリジナリティー、オリジナルプリントといいますよね。その作家の方が本当にオリジナルプリントとしてつくり上げた、物としてのオリジナルプリントがあります。もう一つの考え方として、流通のオリジナルティーというのも僕はやはり考えるべきだと思うのですね。だから、この写真で言うと、このオリジナルプリントを持っているということはすばらしいことだとは思いますけれども、このイメージの流通のオリジナリティーとしては「LIFE」の創刊号が流通のオリジナリティーなんですね。 そして、例えばこういうデザインをして最初に流通していったということ、そういう意味ではこれは物としてのオリジナリティーとともに、最初の流通のオリジナリティーとして非常に重要なイメージとして僕は残されるべきであろう、そういうふうに思うわけです。

【「LIFE」に掲載されたロバート・キャパ「戦場に倒れる兵士」】

もう一つ紹介しましょう。 「LIFE」から紹介ますけれども、ロバート・キャパの「倒れる兵士」です。これはこの近くの富士美術館にすごい数が収集されています。あそこが写真の収集に関しては日本で一番多いです。東京都写真美術館よりも東京富士美術館で持っている方が多いです。 ロバート・キャパ、これはもう写真家といえば名前で最初に出てくる作家ですよね。この写真がオリジナルプリントとしてきれいな額に飾られて、例えば東急のミュージアムか、あそこで展覧会があったりするわけですよね。でも、僕なんか見ていて何か違うなというのがあるわけですよ。物として額に入れられて見る意味と、こうやって最初に世に出てきたときの意味というのはかなり違っているわけです。 だから、額の中で見せていくという見せ方も一つの可能性として否定するわけではありませんけれども、やはりこのイメージの流通のオリジナリティーというのは雑誌にあるわけですね。そしてこれが非常に多くの人たちに、影響といいますか、訴えかけていくという、まさにここが出発点になっているわけです。と考えると、やはり印刷されたものなんですけれども、写真が印刷されている「LIFE」というのはやはりロバート・キャパの仕事を真っ当に理解していく、評価していく上では非常に重要なものである、そういうふうに考えるわけですよね。

白仁田:この流れで、たしか去年、金村修さんの写真を川崎市市民ミュージアムで見せたと思うのですね。あれがピン張りでしたよね。あの写真の収集というのは、ちょっと難しいんじゃないかと私思うのですけれども、そこをちょっとお話ししてください。

深川:金村修さんの作品に関しては、展示のやり方というのが、実際のプリントに金属のびょうで4つの端をとめる、そういうやり方です。 どういうふうに収集するかという御質問でしたけれども、例えば収集するとなると、いわゆるマット化されて、額で展覧できるような形というふうにやはり普通には考えられるのかなと思いますけれども、しかしそうすると、彼の展示の本来的な形とは違ってくるわけですよね。そこのところが、ある意味で本当に作家の方にとってもいたしかゆしのところがあるのですよね。つまり、ギャラリーで展示して作品として流通していけば、それが作家の方にとって非常にいいことなわけですけれども、では金村修さんの仕事を額にしてしまうと、これが彼が本来行っていた展示のイメージとかなり違ったものになってしまうというのが僕の印象だったのですね。 だから、もし収集するとしたら額の中に入れてという形は僕はとらない。ピンのまま、ピンというか紙をそのままやって、ピンも一緒にという感じですよね。

白仁田:となると、写真というのは壁に飾ってマットに入れるものであったり、ピンで張ってあったり、印刷物であったりするわけですよね。いろいろな使われ方があるわけですから、それをどのように見せるかということも美術館としてそれを啓蒙していく活動も必要なんじゃないかと思うのですよ。それについてはどんなふうにお考えですか。

深川:実際、金村修さんの場合は20×24のプリントを本当に数百枚展示しまして、かなり大がかりな展示でした。ミュージアムのギャラリーの壁面にピンでとめていくというふうな、そういう形だったのですけれども、そういう展示の仕方を見て、こういうふうな展示の仕方あるいは表現の仕方というものはあるんだということで、それが一つの実際の啓蒙活動にはなっていっていると思うのですけれどもね。

白仁田:写真を見ることによっての問題と、撮る側の問題と、それが使われる社会のシステムの問題と、いろいろなことを混ぜながら、本を読んだりしながら考えていくわけですけれども、それを美術館が啓蒙するということについてはどうですか。 写真を見ていきますね。例えば1枚見ていきますと、マットに入った写真であれば、まずこの写真について考えます。けれども、その写真がつくられる過程のことも考えるし、その写真が使われる、つまり先ほどの例で言えば印刷物で使われることも考えていくということも含めると、写真をの見方と言っていいのか、見方とか、使われ方とか、社会の中で画像がどうやって回っていくか、流通しているか、そういうことを美術館がグラフィックを使って、教えるという言い方はあれですけれども、みんなに問題提起をしていく場にはならないだろうかとちょっと考えたのですけれども。

深川:それは、川崎市市民ミュージアムのスタンスとしては、そういうことを実際にやっていると思うのですね。 例えば「グラフィックデザインのモダニズム」展、これは、言ってみればポスターの展覧会じゃないかと、そういうふうにある意味で低く見た意味での単なるポスターの展覧会じゃないかというふうに見られる場合もあるわけですけれども、やはりそうじゃなくて、ポスターを通して、その背後に何があるかということですよね。例えばこの時期のグラフィックデザインですと、やはり1910年代、20年代の前衛芸術運動の非常に大きなうねりと連動して、それが一つのポスターの中に凝縮していく、そういうプロセスも見えるような形で提示していきたいというのは、川崎市市民ミュージアムの一つのスタンスになっていると思うのですけれどもね。 逆に言えば、そうしないと写真にしてもおもしろくない。可視的なもの、不可視的なものというものがあると思いますけれども、可視的なものを通して、いかに不可視の豊かな部分というものを開き示していくのか、そのための装置として美術館はあるのじゃないかと僕は考えています。

白仁田:そういうふうに、いろいろな人が見ることでの写真、見ることでのグラフィックということも、少しずつ美術館で提起されることによって、皆さんが鍛えられていくというか、トレーニングという言い方はあれですけれども、必要なんじゃないかと思うのですよね。

深川:そうですね。見ることのトレーニングというのが実は本当に今、日本だけじゃないかもわかりませんけれども、なかなかそんなに進んでいないのじゃないかというのが僕の実感なんですよね。僕自身も含めて、例えば写真をどう見るかということをどこで習ったんだろうか。絵についてもそうですね。有名な絵とか、美術の時間なんかで若干習っているけれども、結局、自分が、例えば展覧会へ見に行って展覧しているのを見て、それでそこから、こういうことをこう見てとか、教えられたというのは余りないのですね。 だけれども、文字、文章を読んで、そこからいろいろな物事を理解していったり想像したりしていくのと同じように、画像というのはイメージだからと言って、それは画像だからそこから簡単にイマジネーションというのが開かれるかというと、必ずしもそうではないと思うのですよね。 ところが、白仁田さんは、やはり画像を見て、そこからいろいろなイマジネーションを持てる人だと思うのですよね。

白仁田:写真といいますか、私はすごく異論を持っていまして、写真は真実を写せないという立場をいつもとっているのですね。それを見ていくことによって、そうかもしれないと、一つずつ自分で仮構していくことによって一つの推論を立ち上げて写真に向かっていくというのが私の見るときのスタンスなんです。ただ写真がそこにあるからそれが真実であるというふうに見てもらうのは果たしてどうかというふうにいつも意識しながら見ているのですよ。

深川:それはこの前ドイツ文化センターで開催されたのフルッサーのシンポジウム(5/26、5/27)での話とつながるのですけれども、「真を写す」というふうに、日本語では杉田玄白がどこかで西洋の遠近法の絵を見て「真を写す」ということを創出してきて、その言葉がそのままphotographyに適用された言葉なんですけれども、真実というのはしかし簡単に写されているんじゃない。写っているからこれは真実なのか、そうじゃなくて、真実というのはあくまでも画像から見えてくるもので、それ自身として見るものではない。何となく写っているとそれがそれが真実というふうにとらえられる傾向があるのです。

白仁田:ともすると画像はプロパガンダにも使われる可能性が十分になるわけですよね。そういう意味では、写真というのは、見せることによって、ただそれが真実であると思われることよりも、よく見ることによってそれが真実であるかもしれないということを考えてもらう媒体なんじゃないかと私は考えているんですよ。

深川:そうですね、そういう見方もできると思います。 だから、いずれにしても、モホイ=ナジのかつて20年代にいろいろこういう画像、新しい社会が生まれてくる中で、さっきみたいな「LIFE」みたいなビジュアルの雑誌とか出てくる、あるいはいろいろな写真の実験が行われていって、現代美術とも連動しながら新しい表現が生まれてくる。そういうある意味ではハッピーな状況を自分自身がつくり出しながら、「未来は写真がわからない人ほど文字を読めない人だろう」というように予言をしているのですが、実は事態はそんなに簡単じゃなかったように思います。やはりそこで確認といいますか、どうやって見るか、見る力といいますか、見ることによっていかに想像力を働かしていくのかというふうな部分の教育というか、訓練というか、そういうのをやはりどこかでやらなければ、このままずるずると21世紀に入っていって、いわば映像の世紀、もっと過激な、バーチャルな、どんどん発展していくわけですけれども、いつまでたってもイメージから何をそれらの個人が想像しているのか、あるいはそこからどういう現実のものとして了解していくのか、そこら辺の問題はまだ手つかずのままだと思います。

白仁田:私のコレクションがそういう、何かのアリの一穴みたいになればいいんじゃないかと思うのです。
(了)