テキスト・アーカイヴ
■写真を見る力とコレクション――白仁田剛写真コレクション展より(初出:会報47号)
白仁田剛写真コレクション展が、2000年の6月3日から7月1日まで、八王子にある東京純心女子大学に設置されている純心ギャラリーで開催された。その際、関連イベントとして、ギャラリートーク、白仁田剛×深川雅文対談」が催された。

この展覧会と対談は、大学ギャラリー主任の井出洋一郎教授によって企画されたものである。白仁田剛氏は、現代作家の写真のプリントをこれまで72点収集してきた。個人の収集としては、日本では数的にも多いほうであろう。

しかし、白仁田氏は、財力に任せて収集しているのではなく、一般の給与生活者として限られた予算からやりくりしながら自らのコレクションを築いてきた。写真への深い愛情と理解が氏をそうした行為に向かわせたのである。

井出教授は、白仁田コレクションのユニークな性格を、公的な写真コレクションに関わる学芸員としての深川雅文氏との対談をとおして、明確にすべくこのイベントを企画したと思われる。その対談の内容を、ここに紹介することにした。

【白仁田コレクション 動機と作品の選択】

白仁田:それでは、コレクションのきっかけからお話ししようと思います。

[原田正路の作品]

隣の部屋に原田正路さんの作品があります。
一番最初の、コレクションのきっかけがこの写真です。午前中私の話を聞いてくださった方はもう覚えていると思いますけれども、この写真が、私が作品を撮ることを断念させたきっかけです。同時に、コレクションを始めた一枚です。撮影することを断念するきっかけというのは、私はこれほどまできれいに撮れる作家というのを知らなかったわけです。

これは、DM、ダイレクトメールに入れたものです。皆さんおわかりだと思うのですけれども、これは横浜なんですね。横浜の雰囲気だけではないよさがあるんじゃないかと考えて、そのときのポケットに入っているお金でこのプリントを買いました。これがコレクションのきっかけです。午前中話したのですけれども、買うたびに、どうしよう、どうしようと迷いながら一点ずつ買っていった結果が、今回皆さんにお見せする72点です。

コレクション展ということで、今回皆さんにお見せすることになったわけですが、私は体系的にコレクションを持っているわけではありません。周りをごらんになっておわかりのとおり、白いプリントもあれば、真っ黒のプリントもあるし、カラーもあれば、モノクロもある。景色もあれば、ヌードもある。悪く言えばすごく雑多なコレクションになっているわけなのですが、その中から、私が気になるプリントとか、これは皆さんにぜひいろいろなお話を交えながら、私の考え方を伝えたいと思うものをきょうは紹介していこうと思うのです。

写真家についてちょっとお話ししておこうと思うのですけれども、どこに行っても、写真を見せる会場には写真家と言われる人がいるのですが、写真家の定義というのがなかなかなされていないのと思うのですね。あなたができますかと言われますとちょっと困ったので、写真の論考を書いていらっしゃる西井一夫さんの文章をちょっとここで紹介しようと思います。

「一般的に言って、よく職業写真家という言葉からイメージされるのは新聞カメラマンの姿ではなかろうか。営業写真館はどっちかというと写真屋さんであって、お店イコール商店のイメージの方が強い。ここで言うプロというのは、いわゆる写真作家、フリーで自己表現として写真を発表メディアとしている写真家のことである。」という定義を彼は示しています。これは西井さんが書いた「なぜ未だ「プロヴォーク」か」という本からの引用なのですが、自分で考えていることを写真というメディアを使って表現している、この一点をもって私は作家という定義をしています。その中で何点か、気になった人をここで紹介していこうと思います。

私の持っているコレクションで多いのは、国内の作家で、なおかつ作品を発表し始めて間もない人が多いです。ちょっとその例を紹介しようと思います。

[真月洋子の作品(a priori)]

一人は、真月洋子さんの作品です。

彼女は、自分と自分外のもの、環境という言い方をしますが、その関係性から作品をつくろうとしまして、この部屋の後ろにある「水影」というシリーズ、ヌードと植物を組み合わせているシリーズから作品の制作に取りかかりました。その中で、途中でこのシリーズに行き当たるわけです。植物と自分の体の、成長して朽ちていく過程、それを彼女はこの1枚に表現しているわけです。ここでは彼女のヌードと植物がダブる形になっています。

[真月洋子の作品(plants)]

それが、時を経てこの作品に行くわけです。

これは、手が写っているのですが、そこに写し込まれているのがキャベツの葉です。さらに、これは男性です。つまり作家ではありません。モデルさんを使って撮ったものです。これは、彼女が1対1の関係から1対多の関係に移り始めたということで、ちょっと注目すべき1点だと私は考えてコレクションの中に入れました。

こうやって、皆さんの中では余り知られていない作家さんがいると思うのですけれども、それでもこういういろいろな作品に取り組んでいるのを、私は今回コレクションとしてお見せできたことを非常にうれしく思っています。

[須田一政の作品(風姿花伝)]

須田一政さんの、子どもとひまわりの写真を紹介します。

この写真は、20年ぐらい前、「カメラ毎日」という写真の雑誌がありまして、そこの編集長である方が「風姿花伝」というシリーズで作品を発表させたころのプリントです。これは、俗にヴィンテージプリントと言われているものです。

日本ではまだまだそうではないのですが、アメリカやヨーロッパでは写真を市場として取り扱っているところがふえてきています。その中で、ヴィンテージプリントというのは、普通に現像されるプリントより価値が高いものとして扱われてきています。ただ、この定義というのがあいまいとしているところがありまして、文献を調べてきたのですが、その文献もすごくあいまいな書き方をしています。

これは、東京・芝浦にあるフォトギャラリーインターナショナルというところのディレクターをしている山崎さんがお書きになった文章で、ヴィンテージプリントというのをこういうふうに定義しています。「年月の経過があって、現在から過去を振り返ってみてからでないとヴィンテージとは呼べないものなので実証や規定は難しい。一般的には、撮影年代当時にプリントされたもので最初に発表してから少なくとも10年から30年以上経たもの」というふうになっています。

定義といっても、ここでももう「実証は難しい」というふうにしているわけで、そういう定義をすること自体非常に難しいわけなのですが、これはヴィンテージときちんと言えるゆえんは、まず第一に作家が「これはヴィンテージだ」と言ったこと。もう一つは、カメラ毎日の「風姿花伝」というシリーズで紹介されるときの印刷の原稿になったプリントであるという二点です。どっちかといえば、私は前者をとりたいのですけれども。作者自身がヴィンテージだと言うんだからという方が、私はヴィンテージらしいヴィンテージと勝手に思っているのですけれども。

実は、このプリントにはちょっといわくがありまして、このプリントを買う前に別の画廊でこのプリントを見ています。そのときのものはモダンプリントと言われているものです。モダンプリントというのは、ヴィンテージプリントと対として使われているもので、撮影年代から大分年がたってプリントされているものなんですね。そのときのモダンプリントは、ぽんと画廊の入り口にあったのですけれども、何か雰囲気がいいと勝手に想像したのですが、そのときはちょっと手持ちがなかったので買わなかったのです。でも、どうしても、どこかにあったらいいなと思って、そしてまた発表する機会が別の場所でありまして、見ていたときに、これは壁にかかっていなくて、箱の中に入っていたのですけれども、ああ、これだとずっと言っていたぐらい欲しいプリントだったのです。

私の頭の中に、ひまわりというと夏の活動的なイメージがあるのですね。その夏の活動的なイメージと、子供の表情を見て、子供というのは活動的と勝手に決めてはいけないのですが、この子供たちの表情を見て、上に写っているひまわりと、この子供の顔がまるでひまわりのように、活動的で、いいプリントだなと思って手にしました。こんなふうに、ちょっと個人的な思い入れが多分にありますけれども、そういうふうに見ながらコレクションをしてきています。

作家としてやろうなんて大それたことを思っていなかったのですが、撮影することをやめてしまった今では、こういうふうに、見ることを通じて、写真というのはどういう表現があるのかとか、写真というのは何を写そうとしているのか、作家がこのプリントに込めた意味は何なのかということを意識しながら見るようになってきました。そのおかげで見ることが楽しくなったというのが、実際私がここまでやってこられた最大の理由なんじゃないかと思います。

[藤見道隆の作品(モニュメントバレー)]

藤見道隆さんの作品です。

写真は窓であるとよく写真の文章を読むとあるのですが、窓の中に窓という、不思議なイメージなんですね。窓の中に窓を入れることによって何ができるかというと、そこに新しい空間をまた創出できるわけですよね。そこで、この写真がすごくおもしろいのは、手前にある風景は大きいけれども、写っているものは小さい。けれども、中に入っているグランドキャニオンは、小さいけれども、実際の規模は大きいという、そのアンバランスというか、対照性にすごく引かれるわけですね。若い作家という言い方をしてしまったのですが、彼もなかなかおもしろい発想の持ち主で、何回か個展活動を続けながら、こういう作品をつくってきています。

[築地仁の作品(SCAPES)]

築地仁さんの作品です。

築地仁さんは、私が実際に築地さんとお会いしたのが、この作品の展覧会のときだったですが、彼は随分前から作家として活動を続けてきていました。随分昔から作家活動をしているのですけれども、余り知られていないのですよね。本があったので一冊持ってきたのですけれども、「インディペンデント・フォトグラファーズ・イン・ジャパン」という本がありましたので、紹介します。これは、日本で1976年ごろ、自分たちで、グループで集まって自主的に活動している作家を集めたちょっと風変わりな記録です。この中に築地仁さんが入っていました。

実は、私は、この展覧会のときはこのことを知らなかったんですよ。彼は、作家活動としてはかなり長いのですが、こうやって作品を見せることによって、彼がどんなことをしているかと、逆に私がこの作品に出合うことによって昔を知るきっかけのプリントになりました。

彼はすごく気さくな方で、いろいろ雑談しながらお話をすることができました。このときの思い出として、「もう二度と同じように焼けないから」と言われたのです。そこの、装飾の柱のところをきれいに焼こうとすると、周りが白くなってしまうのですね。逆に、周りを中心に焼こうとすると、装飾が黒くなってしまう。それを考えながら彼はプリントをつくっているのですが、それを話しているときに、「僕、もう二度と焼けないから」という、その一言に押されてこのプリントを買いました。

写真は何枚でも複製されるものと言われていますが、確かに複製はできます。同じようなイメージをつくることはできますけれども、一つの作品をつくるということにおいても、写真はすごい威力を発揮しているメディアではないかと思います。

[高橋和海の作品(kawaharakobeach)]

入り口にかかっている、高橋和海さんの作品です。

皆さん、写真を撮られたときに、カラーで撮って現像所に出せば同じようなイメージが上がってくると思われるかもしれません。確かにそうなんです、自分が想像したというよりも、自分が納得できるような色で返ってくることはあると思うのですが、全く同じプリントに上がっていることはないと思うのですよ。同時プリントすればあっさりした色で上がってきたものが、焼き増しをお願いするとちょっと濃い色で上がってくるなんということもあると思うのです。

このプリントは、これは実際に展覧会をしたときではなくて、その後に買ったものなので、リアルタイムとして覚えていないのですが、作家の話を聞いた画廊の方の話では、このプリント一枚のために、現像所とやり合うぐらい彼はプリントに対して執着心があったそうです。単純に、青が写っていて、気持ちいいプリントだなと思われるのではないでしょうか。私自身、水平線というのがすごく好きですので、手に持ちたいプリントの一枚ではあったのです。しかし、この一枚を焼くために、色を考えて、それで現像所の人とやり合うぐらい、けんかをするというか、このイメージじゃないからもう一回焼いて、を繰り返してできてきたプリントだそうです。

単純に、皆さんの前でこうやってプリントをお見せしていますけれども、裏の話を今回いろいろ考えながら私はプリントの展示をさせていただきました。

ここで皆さんにお見せすることによって、私自身がプリントを並べる、見せることことについてすごく神経を使ったこととして、壁一面に写真をかけるというのは、流れなどをよく考えないと、ともすると、そこで流れが壊れることによって、作品を見るリズムが崩れてしまうという意識があって、今回はいろいろ自分で考えながらプリントを並べました。

午前中にちょっとお話ししましたけれども、入り口の部屋は、高橋さんの作品と、人物とかヌードないしは生き物が写っている写真。ここの部屋は、一つの壁は藤見さんの写した作品。もう一方は、そこから派生するイメージ、関連するイメージを順番に並べていったもの。そしてもう一つは、まさに壁、壁が写っているものというテーマで集めてみました。そして後ろの方が、隣の部屋の真月さんの「Cabbage」という作品があったと思うのですけれども、そこから、植物があって、植物から派生される一連のイメージを並べてみました。

さらに向こうの部屋に行きますと、原田正路さんの作品があります。親しくしていただいていたのですが、去年他界しました。彼のプリントはすごく誠実なプリントなんですね。誠実という言い方が何をもって誠実としているかは難しいところはあるのですが、見たものをきちっと撮る、きちっと表現できるという意味で、私としてはストイックだなと思っていた作品です。いまだにこのプリントを見るたびに、原田さんを思い出して、またこのときの、もう写真なんか撮れないやという断念したことをいつも思い出します。

[柴田敏雄の作品「日本典型」]

そして、もう一人かかっているのが柴田敏雄さんの作品です。

柴田さんのプリントは、実はアメリカで先に評価がありまして、MoMAでも展覧会を開かれたという実力の持ち主なのですが、彼が「日本典型」というタイトルでシリーズ化したものです。

きょうこれからお話をしていただく深川さんの勤めていらっしゃる川崎市市民ミュージアムも柴田敏雄さんのコレクションがあるのですが、私は、このプリントを見ていて、普通の風景でもリズムとか韻律を感じられるのですね。

ちょうど、たまたまこのプリントを出しておいてよかったのですけれども、こういうふうに、道路の三本線があって、なおかつここにもう一本、道路の輪郭線があって、山がこんもりして、それに呼応している。単純な風景ですけれども、そこにも、見えないけれどもリズムが感じられるわけですね。こういうリズムを見つけて彼が作品化しているんじゃないかなと感じました。彼の作品の場合は、15枚のポートフォリオというスタイルで持っているのですけれども、それぞれからいろいろなプリントにリズムを感じます。

[栗田紘一郎の作品(Dark Cloud)]

もう一人が、栗田紘一郎さんの作品です。

これを見ていて、すごくリズミカルな写真だなと思ったのですね。草のなびいているリズムと、それに呼応するかのように雲がたなびいているリズムが感じられて、左側の真ん中当たりから草が下の方向になびき、雲が上になびくというリズムを感じまして、何でこんなふうに撮れるのだろうかと、その対象を前にしてリズムを感じて撮れるというのは、なんてすごいプリントなんだと思いました。

【写真と現代美術】

ところで、写真というのは現代美術とよく結びつけられます。私にも家内がおりまして、写真の作家をやっています。彼女ともよくこの話をして、あなたは写真を現代美術だと思うと言うと、違うと答えます。私は、初め、ある美術館の学芸員の話で、写真は現代美術の一部であるというふうに話を聞きましてから、そうか、写真も現代美術なのかなとおぼろげに思っていたのですが、彼女に言下に否定されまして、それをひっくり返されるようなことを言われましてから、一人で考えてみました。

確かに、現代美術というのは、現代のいろいろな事象や、自分で考えた感覚的な部分をいろいろなテクスチャーにあわせて表現することだと思っていますが、写真というのは写真だけに向かってやれるものだと私は考えます。現代美術には立体や映像など、いろいろなことを混ぜてやっていますけれども、写真というのはその写真のみ、つまり、カメラを使ってシャッターを切ることによって表現される媒体というふうに私は勝手に定義しているのですが、写真を使って表現できるものが写真だと思っていまして、現代美術はいろいろなものをまぜこぜにできる、言いかえれば、自分の内側から発散できるもの、それを造形物としてできるものと思っています。逆に、写真は一枚だけに込められているものなのじゃないかなと思いますので、今回は、私は、現代美術と写真とは別個のものとして考えています。これはもしかしたら皆さん異論があるかなと思うのですが。

写真というのは何かというと、さっきリズムとか反復とか、あとは自分の身体に植物をあてるとかいう作品を紹介しましたけれども、何かを伝えるものだと思うのですね。何か自分が、物を撮ること、物というか、風景とかいろいろな物を撮ることによって、自分が何かを伝えようとしていると思うのです。それが、私がそのままきちっと読み取っている、写真から読み取るという言い方を私はあえてしているのですが、読み取るものが合っているかどうかは別としても、人に何かを伝えようとしていることがこの写真一点に集まってきているのじゃないかと思うのですね。

私自身はそうやって写真を見てきていますので、作家とお話をさせていただいたり、きょう後ろに作家さんがいらしているのでちょっとあれなんですが、私もいろいろ生意気なことを言って、作家さんの方にこんなことじゃないですか、こんなふうに思うのですけれどもねとしゃべりながら、それを解釈していく行為をして、それに納得することによって作品のすばらしさを私なりに感じて、プリントを購入する、そういう単純な繰り返しをしてきています。

そうやって集まった72枚ですが、皆さんにどんなふうにごらんになって思われたか、この機会にいろいろお話をいただければと思います。

それでは、ひとまず終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

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