テキスト・アーカイヴ
■座談会(初出:会報45号)
PART2: [写真とテクスト]

鈴木:前に西井さんが書いていたけど、よく写真は一行のキャプションだって書いてましたよね。

西井:キャプションの存在しうる写真っていうのが、何枚あるかっていうことだよ、世の中に。要するに、少なくとも新聞写真には一枚もない。意味がないんだから。なんだか分かんないんだから。場所が分かんなきゃ一昨年の写真かもしれないし。だからさ、新聞にのってると昨日の写真だとみんな勝手に思ってるけど、キャプションによっては十年前の写真でも平気で載ってるわけなんでしょ。それがキャプションなかったらなんなんだってのよね。

鈴木:資料映像だというのは?

西井:いやいや、そういうものだって字だから(笑)。そういうふうに書くのもだめ。そういうもの何にもなくてさ、50年前の写真が載ってること、いっぱいあるんだよ。新聞は。だからさ、今日の座談会に相応しくないんだけど、今一番興味もってるのは、それなの。 要するに、文字と写真を切り離した時に、写真は写真でどれだけ自立できるかっていうことなの。たった一枚として。しかも、写真で5枚というんじゃなくてね。1枚で。いいよ、5枚でも本当はいいけど、文字がなく、見出しもなく、5枚あってもいいよ。たとえば飛行機が落ちていくとこだって、5枚あればだいたい分かるよね。落ちてくとこだろうって。でもさあれ1枚だけだったら、落ちていくのか昇っていくのかまったく分からないはずなのよ。だいたい上下が分からないはずだから。

深川:画像とテクストの関係というのが、実は逆転しちゃうっていうのがあると思います。写真はインパクトがあっても、結局、その意味を支えているのが文字テクストっていうことが。だからキャプションつけなかったら、もう本当にどういう方向性で読んでいいのか分からない。

西井:もう分からないんだよね。だから、一番よくやってるハンガリー動乱の時の、戦車がバーッと入って、民衆に囲まれているところの写真にどうキャプションをつけるのかってことだよね。要するに、暴徒を鎮圧するソ連軍と書くのか。

鈴木:まぁ極端な話、教科書の写真、そういうことですよね。

西井:そういうことですね。だから、もっと新しいので言えば、沢田教一のピ−リッツァ賞をもらったベトナム戦争の写真だよね。あれが「自由への逃亡」でいいのかってさ。タイトルが。どこが自由なんだ。こっちが自由かって。だってあれは南ベトナム側に泳ぎついた母子を撮ってて、何が自由への逃亡だって。「自由からの逃亡」だろう。(笑)という言い方もあるわけで、政治的には。そういうことは写真とは関係もないわけよ。だから、そういうタイトルをつけようとすること自体が一種の「アナクロ」なわけよ。「自由からの」とか「自由への」とかさ。じゃあ、あれ、そのまま提示すればいいじゃないかっていう話もないわけではないと思う。何にもなくてあれを見てさ、じゃあ何だって、ベトナムか何かも分からないわけでしょ、まるで。写ってるのアジア人だなって分かるけど。運動会のなんか、借り物競争かもしれないっていう感じがあるよね。

深川:やっぱりテクストで世界に届くしかないっていうことですか。

西井:だからそこにめちゃくちゃさが写真にあるじゃない。要するに結局分からないことを認めると、何にも分からないっていうさ。シニフィアン(=意味するもの)がなくてシニフィエ(=意味されるもの)しかない、とこういうことにロラン・バルトだとなるの。こうでしたよとしか言ってない。だから東松照明が撮った長崎の写真の問題をめぐって、すごいバトルがあるんだけど、そこのところで、ニフティの会話のところで、何百通もあるんだけど、一番面白いのは、この人が撮った写真の中で、何年も長崎行って、ずっとこの子供がこんなに大きくなって大人になって、結婚するところまで撮ってました、といって写真撮ってるじゃない。それが飾ってあった。で、本当にこの人がここまで大きくなったっていう証明がどこにあるか、そういうふうに見た人がいるわけ。どこにも写真に写ってない。この人が、この子供がここまで大きくなったという、毎年撮っててもだめなのよ。いつか入れ代わってるかもしれないんだから。毎瞬間ずーっと撮って、だからもう一秒もおかずにずっと撮ってない限り、この子がこうなったということは写真には証明できないということなんだよ。ましてや写真なんかで、20年前、この子をこう撮った、20年後にこの子が嫁に行く時にこう撮ったってなものがバーンと2枚あったって、この子がこうなったという証明はどこにあるんだってね。下に書いてある字だけじゃないか。まったく別人だって言えば、それで終わりなんだ。それだけの話の写真展をなぜすごいとか言うのか。という疑問が出たのよ。そのフォーラムで。これはだけどね一つの、バカバカしいけど、面白い話なんだよ。だって誰が証明するの。東松照明も証明できないでしょ。撮りに行っただけの人なんだから。20年後に私です、と言った人を撮っただけなんだから。本当に、20年前のこの人ですか、ってことは、全然知らないわけだ。で、写真展ではそういうふうになってるけど、本当なんでしょうかという疑問をもった人がいるわけ。まぁ、いやな見方だと思うけど、疑問もった方も。いたっていいよね。だって、事実それを証明できないんだもん、誰も。写真にはできない。だって撮られた人にもできないでしょ。撮られた人は私です、って出てくるだけで、20年前に戻るわけにはいかないんだから。っていうことは、20年後のこの人ですって写真は全然成り立たないわけよ。人物的な定点観測はまったく成り立たないとこの人は言ってるわけよ。写真なんか全然信用しないって言ってるわけだ。こういう前提にたてば、当然そうなるよね。だって、この赤ん坊がどうしてこんなになるんだって、どういう証明をできるか、誰もできない。

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