テキスト・アーカイヴ
■死者たちの作るホロコースト(初出:会報41号)
7月にワシントンのホロコースト博物館に行った。

昨年から掛かっている「20世紀の記憶シリーズ」の仕事で、ホロコーストという別巻を作るための写真収集のためである。 事前の調べでそこには、約5万枚の写真が収蔵されており、PUBLIC DOMAINのものは、使用料なしで使える、ときいていた。

コロンビア地区=DCはホテルが高いというので、私のホテルはポトマック川を超えた向こう岸のバージニア州のROSSLYNで有名なアーリントン墓地の一つ手前の地下鉄駅からすぐのところだった。

地下鉄のオレンジかブルーに乗れば、DCに戻る方向に6つめのスミソニアンの駅で降り、ペンシルバニア・アベニューを少し戻り、左折するとすぐに目指す建物が目に入る。ホロコースト博物館、正式にはU.S. Holocaust Memorial Museumというから米国ホロコースト記念博物館というべきなのか。略すとUSHMMとなる。 インターネットもこの略であり、http://www.ushmm.orgでつながる。

そのウェッブ・サイトで公開されている写真を見ることが可能だが、取り込んでいる容量が小さいので、ダウンロードしても、印刷ではほぼつかいものにならない。 だから、自身で現場に行って、どのくらいのクォリティなのか確かめ、その上で写真を注文してこようと考えたのだ。

もちろん、ついでに博物館の展示を見学し、中の構成も見ておきたかった。 この博物館は入場料はフリーである。ただ、一日の入場者数を決めているため、朝整理券を配り、これがないとその日は見学できない。 だから、整理券のために朝10時の開館前には、長い行列が出来る。この入場制限は館が開館した当初はなかった。

開館当日は、館の食堂(別棟)の写真でわかるが、凄い人手で、混雑すさまじく、ゆっくり展示が見られないという状態だったそうで、この反省から、1日の入場者数をゆっくりと展示が見られる数に制限することになったという。 入場すると観客は皆例外なく、エレベーターで4階へ連れていかれる。

ここから順路に従って、次第に下の階へと降りて行って基本的には、2階で一区切りになっている展示を「見る」ということになる。 見るにカッコを付けたのは、見る、というより、体験させる、ことを目指している展示であるからだ。

絶滅収容所への移送に使われた貨物列車の貨車が観客の通り道に横付けされていて、その扉を通って中をくぐらなければ、通路が通れないようにできていたり、 有名なアウシュヴィッツの入り口にあった「働けば自由になる」というドイツ語の書かれた鉄文字の門(むろんこの言葉はアウシュヴィッツだけではなく、ダッハウやザクセン=ハウゼン等にもあったのだが)も通路の上に掛かっていて我々はその下を通ってアウシュヴィッツの展示へとアプローチできる。

展示は「ホロコースト以前」から始まり、1933年のヒトラーの政権掌握、テロの始まり、ボイコット、焚書、ナチ・プロパガンダ、人種科学、市民から法外者へResponce、クリスタルナハト、帝国の敵(ロマ)、ナチ社会、警察国家、避難先探し、戦争の始まり、ハンディキャップ殺し、絶滅、ゲットー39-44、テレジン、ワルシャワ、ロズ、カウナス、400のゲットー、1941USSR侵攻、独特殊部隊(ソ連への侵攻の途中で山奥の村にまで入り込みユダヤ人を探しだし、殺害したSS部隊)、BABIYAR 1941.9月、Wannsee Conference 1942, 1/20、ゲットー蜂起(1943)、移送、選別、囚人たち、奴隷労働、アウシュヴィッツ=ビルケナウとここまで一挙に4-2階まで続けて、たどりつくと、そこには、3階分吹き抜けで死者たちの肖像写真が見上げるように四方に掛けられた部屋(あたかも、煙突の中にいる如く)にいる自分を見つける。

一息つくとすぐに続きが始まる。2階の続きは、ユダヤ人を「救った人々」で、各国別に人名が書き込まれている。シャンボンでユダヤ人を匿った人や60万ドルをスウェーデン政府に払って、7220人のユダヤ人をスウェーデンに逃がしたデンマーク政府や首相や大司教が移送列車の前のレールに寝そべって文字通り身をもって移送を阻止したブルガリア政府のような大きな救済からもっとごく小さな救いの手まで、何と細やかな小さな小さな手の数々が刻まれていることだろう。

日本人の杉本千畝の名も恥ずかしげにあった。そこからは、パルチザン、デス・マーチ、解放、Displaced Persons=DPS、Exdusとなって、1階への踊り場に吐き出される。 1階には、子供達用の展示として、ダニエルの物語が当時のユダヤ人家庭を再現して展示されており、1階は整理券なしでも入れる為、終日混雑している。 館内の写真撮影は一切禁止されていて、これは極めて厳しく取り締まられている。見つかれば、直ちにフィルムを没収される。  

いきなり、4階へつれていかれ、順路を外させない館内進行が一部に官僚的でナチス式だ、という批判を生んでいることも事実で、館員の態度を含めて私もいささか、よそよそしさを感じた。表からは解りにくいが、裏や横に回るとすぐ気付くように、この建物は、基本的に鉄と煉瓦を基調としており、明らかに、収容所の死体焼却所を連想させるように設計されていて、展示スペースは薄暗く、収容所展示スペース等は、下が泥んこならここが収容所ではないか、と思えるほどだ。ここに足りないのは、臭いだけだ、といえば大袈裟だが、そういう気分にさせるよう仕組まれているのも事実だ。  

個別的な感想を記しておくと、まずゲットーがテレジン、ワルシャワ、ロズ、カウナスの四箇所となっていることについて、400もあったゲットーの内どうしてこの四つなのか。理由は簡単、資料的に残されているのがこれが多かったからだ。 それほど、全ては消滅させられてしまったということだ。収容所については、アウシュヴィッツ=ビルケナウだけが特別にとりあつかわれているが、それもゲットーと同様他の収容所は残されず、逆に解放後連合軍の手で焼かれた所もあったくらいだ。 具体的な事実としては、そう目新らしい事実に遭遇したわけではなかった。

それでも、ホロコースト以前の1933年当時、ドイツのユダヤ人人口は57万人で0.872%にすぎず、欧州で一番ユダヤ人人口が多かったのは、ポーランドで303万人がおり、9.487%を占めていた。次いでソ連に252万人がおり、次にルーマニアの98万人、ドイツはその次だ。

焚書となった書物の作者には、サンガー女史、トロツキー、レーニン、ベーベル、ブレヒト、ヘミングウェー等がいた。びっくりしたのは、「解放」のところで、これは、カラーで記録映画が残されている。当時の収容者は、別の映像の中でこう語っている。「解放に来た兵士たちは鉄条網にすがって助けをもとめている私達のすぐ近くまできているのに、それ以上近づいてこなかった。私達は何故彼等がそれ以上近づいてくれないのか解らなかった。

その時ひとりの兵士が鉄条網の近くにやってきた。そして、彼は吐いた。嘔吐したのだ。その時私は、なぜほかの兵士がそれ以上近づいてこないのか、解りました。私達は吐き気を催すような姿と臭いをさせていたのです。それから、皆兵士の目から一刻も早く逃れようと背を向け、一目散に逃げ出しました」と。クリスタ・ヴォルフが「幼年期の構図」の冒頭に描いたメクレンブルクのシュヴェーリン収容所の解放の日の写真を私は博物館見学の前日に見つけていた。博物館のフォト・アーカイヴは5階にあって、四方を収蔵の写真プリントのファイルがぎっしりと詰まった書棚でかこまれた部屋だった。

その部屋で私はコンピュータに入力されてデータベース化された写真を次から次にマウスをクリックしながら、見ていき、必要な写真の番号をメモし、後からその番号の分だけコピーをプリントアウトして、これらをCDに入れて日本に送ってくれと、注文すればよかった。 およそ1週間通って、約4万枚くらいは見たろう。そしておよそ、700枚を選んだ。メクレンブルクの写真はそのうち12枚ある。

シャルロッテはエンドウ豆のスープを食べさせてやりながら、そのシュヴェーリン収容所の火のそばにいた囚人が、 その言葉をつぶやくのを聞いた。彼は共産党員だったのか、という彼女の質問に対し「いったい君たちはみなどこで生きていたんだ」と彼はいった。

それは疑問文ではなかった。疑問文にするだけの力を男はもっていなかった。疑問文、叙述文、感嘆文は、もはや、あるいはまだ、使用することはできなかった。 たいていの人々は沈黙に陥った。人々は首をふりながら、つぶやくように話した。君たちは何をしていたんだ。 坊主頭で縞模様の丸い囚人帽をかぶった囚人たちは、そういった。

鉄条網の向こうからとうに消え去ってしまったと思えた「世界」が依然としてある、ということに対する当然の驚きからこの囚人の戦後は始まった。 スープをむさぼり食いながら、彼は「あいつらは、わしらをどうしてしまったのだ」という。

実際にそこにいたのにしかも関係なく過ごしていた人がいる、という身の毛もよだつことが、何の説明もつかずに事実としてそこにあった。 「うつろな目つき」になるはずだ。生還した世界は彼にとって、かつて彼の生きていた世界とは断絶しているのに、今、目の前にいるシャルロッテには地続きの世界なのだ。双方にとって、すでに「世界」はまるで違ったものとなっている。

よかろう。だったら「いろんなものをすべて忘れてあげてもいい」と言ったのはどっちだい。 プリーモ・レーヴィもブルーノ・ベッテルハイムもジャン・アメリーも決して忘れられなかった。 「生き残ったものたち」は忘れたくとも忘れられなかった。 「生き残った」のではなく、ずっと「生きていた」ものたちだけが「忘れてあげてもいい」なんて言葉を吐けるのだ。

解放にやってきた兵士たちのように、そこに見た囚人の姿に嘔吐した兵士のように、「忘れてあげてもいい」という言葉も嘔吐されたのだ。 全て、の中には当然「ハイル・ヒトラー」という挨拶も含まれていた。「強制収容所」はかつては「教習所」と呼ばれていた。

そのことを聞くと、お爺さんは「おやおや、何をいうんだい、この子は。わしが何を知っているというんだ」と、これも疑問文ではない言葉が返ってくるのだった。 大人が口に出さない、隠された言葉があることを子供たちは敏感に感じ取り、それが、喋ってはいけない言葉なのだ、とタブーを知るのだった。

このようにして、秘密の扉が閉ざされ、人々は記憶の空洞を土で埋める。 だが、しかし、それでも在る日突然、例えば黄色い薔薇の花びらとその微かな臭いが、収容所の脇にあった所長の官舎でのパーティの夜の事を稲妻のように思い出させることがあるかもしれない。

あの日、シャルロッテはまだ5歳だった。従姉妹のレンカは2つ年上だが「わたし、そんなことはわからない」という。おそらくその通りだろう。  記憶とは「消滅する出現の領域」であり、「表面には表われない調和」を作り出す「接合の領域」(ハイデガー)なのだ。

「現前の外」とハイデガーによっていわれた「秘密の領域」こそが記憶であり、記憶がナチズムを支えたのだ。第三帝国は「記憶に対する戦争」である。 「思い出すことに対する戦争である」と確かアメリーが述べた。

記憶違いかもしれぬが、そんなことはたいしたことではない。本をもう一度めくり返す手間を惜しんで私はあやふやな記憶の中でこれを書いていく。 そう決めたのだ。5階のフォト・アーカイヴで私は、ヴィルナやルブリンやクラカウ、ブダペストのゲットーの写真も見た。

プラハやリトアニアやオランダのユダヤ人、ミンスクでのドイツ特殊部隊の虐殺やブカレストのポグロム、クロアチアのウスタシのセルビア人虐殺の写真も沢山あった。 無残に殺されたパルチザン。ソシテ、戦後のEXDUS号。無数とも言える死体を見た。 来る日も来る日も夥しい死体、それも無残としか言いようのない死人たちを見続けた。 横では、老婆が、ついても仕方のないため息をもらし、何ということ、何ということなの、とつぶやいている。

「私はしらない」私の仕事だ。と私は無言で言っていた。アーカイヴのスタッフは皆ユダヤ人である。 彼(女)らはこの夥しい同胞の死体を見て、あるいは、仕事として整理・入力しながら、どう思っているのだろうか。

「私はしらない」彼(女)らの仕事だ。事実彼(女)らは、日本から来た私の仕事を助けてくれたが、決して私のやりやすいようにではなかった。 彼(女)らの仕事のルールに沿う限りでだ。当り前だが、極めて官僚的だった。

最後に700枚の写真を注文した時には、こんなに沢山の写真を一体何に使うのかと始めに説明した事をもう一度説明し直させた。 20世紀の記憶の中の「ホロコースト」という本を一冊作るのだ。

「誰が作るのか」「私自身だ」そう応えたが、果たしてそうだろうか。死者たちが作る、そういうほうが良いと頭の端で何者かが揶揄していた。