テキスト・アーカイヴ
■西井一夫の写真雑感(初出:会報38号)
■本多正一写真集『彗星との日々―中井英夫との四年半』(光村印刷株式会社・96年2月発行・2000円=税抜き)

写真家は、1964年12月宇都宮市生まれ。1989年、写真家は、中井英夫の家を撮影に行った。その時偶然中井本人が出てきて、話をし、結果として、「ついでに助手になれ」と持ちかけられ、93年に中井が死ぬまでのほぼ4年間「助手」をし、その日々を写真に残した。96年に銀座ニコンサロンで写真展をし、写真集も出版した。それがどういう訳か97年の年末になって、写真家本人から、私のところに送られてきた。その頃の中井は作品が書けなくて酒を飲む日々で、本多は、肝臓を悪くしていく中井を強制入院させたり、又かってに退院してしまう、中井に対し、喧嘩腰で禁酒を迫り、そうして喧嘩をくりかえしながらも、中井を見捨てることができず、最後の入院と絶筆の口述筆記をする、等肝不全で中井が死ぬまで、つき合い、死後もさっさと決別出来なかった。この写真集は、彼=本多にとっての決別の本である、と思えるが、多分その思いは、成就しなかったろう。

中井は、1922=大正11年東京田端生まれ。市ヶ谷参謀本部に暗号兵として勤務、腸チフスで危篤となり、敗戦を知らぬママ9月まで昏睡。戦後、東大中退、「短歌研究」「短歌」編集長。塚本邦雄、中城ふみ子、寺山修司、春日井建ら多くの歌人新人を発掘。64年『虚無への供物』を塔晶夫名義で刊行。74年『悪夢の骨牌』で第2回泉鏡花賞受賞。86年『中井英夫作品集』刊行開始、「幻想文学」の作家として世界を紡ぎ出す生活に入る。

三島由紀夫を「人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物」として歩き始めた、と評した中井は、自身の死という「偉大なる経験を書き得ない」ことを「最期に文学を冒涜すること」と考えていた。こういう人を写真家は、「彗星」にたとえ、その観測記録を写真集として、上梓した。写真家は中井の死の直前の会話が、病床で綴られていた日記に書き残されていたのを死後知る。そこには「死んだらどこへ行くのか、」という極在り来たりの会話が記されている。「教えてくれなくちゃ、教える。」といって中井は「他人の心の中に」だ。と教えた。この「他人」を例えば良く人々は「タニン」といい、「タニンゴト」等と平気で発音するが、己=オレは「ヒト」としか読まない。それもひらがなの「ひと」だ。死んだら「ひと」の心の中へ行く。そして「やっと答えが見つかった。」と、そこにはあった。人生をトランプ遊びに例えるなら、中井さんは、きっとうまくあがったんじゃないかと思う、と本多はいう。やっと、答えがみつかったのは、中井の死の三日前のことだ。

本多は、中井との最後の四年半の日々を「喧嘩して遊んでいただけ」と言う。「掲載のためらわれた写真も敢えて収録した」という。そして、中井の日記の引用が写真のキャプションのように付けられている。贅沢といえば、贅沢、当然といえば、当然。であろう。「この世がいやでいやでそのくせまだ生かされている苦痛」「小説は天帝に捧げる果物、一行でも腐っていてはならない」「夕映はなぜあんなに美しいのか、この世ならぬ美のあることを教えるためか。」「どんなに優しくしてくれようと、どんなに己の躯のことを案じてのことだったとしても、酒が欲しい、酒が必要だというとき、買ってくれない怨みは限りなく深いのだ、「怨」だ」「人間は皮膚いちまいを隔てていつも「孤独」だ」。日記の引用は、「己の一生は結局何だったのか考え始める」というところから、始まっている。写真集の最後の写真は夕映えの道に延びた二つの人影で終わる。同じ写真がカバーの写真になっている。写真家と中井の影のつもりだろう。18.5×17cmの小ぶりな本である。突然送られてきて唐突に見始めた。そして、直ちにものを書こうと思った。ささやかな紹介文である。

本多氏は、30代前半の青年である。そして、私は今51歳だ。数年前私も藤田省三という私の師と決めた人の直腸ガンの検査から、入院、手術、退院、その後という過程に濃密に関与した経験がある。藤田さんの入院には、沢山の人が色々な面倒を見るため駆けつけた。手術後、睡眠薬で睡眠中栄養剤を入れるため肩に入れたクダを引き抜き、皮膚中に入っていたゴムが血管中に残ってしまい、ゴムが血管中を流れて、しまいには、心臓に到達する、と言われ再び穴を開けて、ゴムを取り出す手術をする、という笑い話のようなことがあった。本人は、針を引き抜いたことも知らず、起き抜けに、見た夢の話等して、それが、ソバを食う話で、自分の何かの主張が夢中で正しくて、ザマアミロと大見得きっていたことを得々と話していたところ、針は、どこへ行った、という騒ぎとなり、大慌て。などということがあったのを思い出す。藤田氏も我侭で自己中心的な存在だった。周りは、家族も含めて、大変だった。自己中毒患者、と読んで皆で揶揄した記憶がある。その人の考えや書くものは、到底かなわない、と尊敬する人が実生活では、イヤな奴だったりすることは多々ある。しかし、人はその人のもっている特性の一部分だけを取り出して付き合うことなどできないのである以上、ひとと付き合うことは、そのひとの嫌いな部分や見たくないところとも同時に付き合っていくことしかないのだ。それが、中井の言う「ひと」であり、ひとの心に帰っていくとは、いいところばかりでなく、嫌なところを含めて「逝く」のだ。行くと逝くが同じ読みをするのは、決して偶然などではない。



■三浦和人写真展「〈見ること〉の習慣」(97/11/2-11、浦和市・楽風&柳沢画廊)

副題に「まずは記録まで1989-1997」などとあって、この記録なるものが、尋常なる記録ではないことが知らされる。三つ折りのチラシの中に、三浦氏の師である、大辻清司氏が文をよせていて、三浦氏のこの写真シリーズが1989年から始まったことを書いている。三浦氏は、故牛腸茂雄氏と同級の人で、牛腸氏への無償の庇いの行為があり、それは、単に友情という言葉では言い切れないという。

二人は、写真に対する厳しい姿勢や表現の方法に至るまで深く影響しあい、牛腸氏の死後、彼の跡を「引き継ぐ」決意をした三浦氏は、「少年の形姿」を対象とするだけでなく「少年」の中に「既成のことばに浸りきっていない」「未熟と成熟の混沌」を見出し、少年達の自己成熟の過程に自己表現の方法を見出していった、のではないか、と大辻さんは書いている。どうにも、愛くるしく闊達な少年達が画面に横溢する。一部は、コマが続いていてスナップ・ショットの連続写真になっているものもある。それが実に良い。水中からズボッと飛び出した少年がいる。水が皮膚にこびり付いて、ビニールを張り付けたようなヌメッとした感じが写真上で見事と言うほかない感じが表現されている。ああ、あの夏のプールで見たあの子だ、という懐かしい思い出として見る者に迫ってくる。誰もが昔子どもだった。

しかし、その遠い日々の姿を三浦氏の写真を見て思い出す。奥深い喪失感と共に。彼の言う<見ること>というのは、多分思い出すことなのだ。見るというのは、実は思い出すことなのだ。見る、ということは、目で見るのではなく、思うことと同義なのだ。見る=I seeというのが、分かった、という意味であるのは、見ることが、目より、頭脳に関係した言葉である、ということを意味しているのではないか。思い出とはsouvenir=土産もの、のことだ。土産=形見だ。子どもとは、つまるところ我々の形見ではないのか。形見であり、片身=半身である。形見とは、死んだ人を思い出させるもの、という意味があり、子どもは確実に我々の死んだ子ども時代を思い出させる。そういう意味で子どもは我々の半身であり、死んだ我々自身である。少年を撮る、あるいは、見るということは、自分の死(過去)を見つめるということである。しかし、それは常に同時に自分ではない、現在の他者としての子ども自体をも見つめることとダブッテいる。そのようにして、やっと写真が子どもの写真から自立して、三浦氏の写真として立ち上がってくるのだ。楽風というお茶屋さんの敷地内にある明治時代に建てられた木造の二階建ての喫茶店の二階を会場にした靴を脱いで上がるスペースでの展示は、全て少年、子ども達の写真であったが、柳沢画廊の2、3階スペースでの展示は、風景と人のいるスナップで構成されていた。夕なずむグラウンドに一人佇んでいる野球少年の写真が特に私の記憶に残った。ああ、私だ。と私の記憶が思い出していた。その少年は気持ち心恥ずかしく、俯き加減になろうとする顔を必死で上向きに上げようとしていた。私にはそう思えた。見えた、のではない。こうして、三浦氏は記憶を記録してきた。

初めの1989年とは、ベルリンの壁が崩壊したあの年だ。その時から三浦氏のシリーズは開始された。そこに過剰な時代性を盛り込むことより、大きな時代の曲がり角で、人は独自に個人的曲がり角を曲がる、くらいの方がよかろう。三浦氏が浦和の人であるのかどうかも私は知らない。が、いささか遠いところに出かけていこうという気にさせた何かが、案内状にあったことは事実だ。一年の内僅かだが、私の気にかかる写真展がある。たいていは、こうした小規模だが、内容の深い、だからシンプルなものが多い。



■浜田蜂郎写真集「殺風景」 (刊行委員会刊・3000円)

昨年12月に亡くなった浜田さんの残した遺品の写真から、黒白60点、カラー15点を厳選し「殺風景」として出版した。資金は、浜田氏を知る友人知人の多数の方々から集まった浜田基金である。基金の呼びかけ人は、草森紳一、朝倉喬司、末井昭、森山大道、石塚恵子、西井一夫で、写真セレクトは森山、文章は草森が担当した。