テキスト・アーカイヴ
■写真塾発足の報告(初出:会報37号)
去る8月7日、かねてから西井が会報で呼びかけていた勉教会が始まった。呼びかけに、購読者の楢橋が答える形で事務方を担当するという形で、まず西井が呼びかけ文を書き、これを楢橋が郵送、手紙が届いた人が当日会場に来るというやり方で、ひとまずスタートしました。当日参加された方は次の通り。新倉孝雄、中川道夫、斎藤玲子、荒井真治、尾仲浩二、唐仁原信一郎、佐原宏臣、菅原朝也、北原莞爾、伊勢功治、宮沢豪、木村美代子、楢橋朝子、西井一夫の14人が参加。西井が挨拶、最初のレポートをし、今後の会の進め方等を話しあった。  今後は、一ヵ月置きに月の第2月曜を定例の会合日とし、夕方6時から、原則的に同じ早稲田奉仕園セミナーハウスで開く。毎回最低1冊の本を読み、レポーターを決めて、その人がレジュメを造り、発表する形ですすめる。会の名称は西井塾もあったが、写真塾とし、次回のレポーターは立候補がない場合、その回のレポーターに指名権を与える第2回には藤田省三氏の「戦後精神の経験」1をとりあげ、3回目は同2〈影書房)をとりあげる。第2回は10月14日、第3回は12月9日とする。会場は5時半から借りている。大体9時まで、をめどにかんがえている。なお、呼びかけ、と8月の第1回に配布した文は以下の通り。



■ 写真塾にようこそ
本日は、少し涼しい中早稲田の地までご足労いただき、有難う存じます。 写真塾は、私が過去二度に渡って呼びかけた勉強会の事務方に、ようやく約一人志願者が出て、やっと実現にこぎ着けたものです。 私が呼びかけたのは、写真の会会報という小さな会報の中ですが、その中で私は、写真をめぐる周辺が、あまりに自分の事やその周辺の些末な事にしか関心をしめさず、その興味のみで写真に向かっている事に軽い絶望感を表明して置きました。

世界や永遠や不滅といった、面と向かって言い出すとあざ笑われてしまいそうな、普遍的な関心に向かう精神を私は大切にしていて、馬鹿にされようと、そういうことに触れて世界に関心を繋ぎたいと考えていたのです。我々と、今私達は声を発することが出来なくなりつつある、と私は思うのですが、我々といわない方がいいじゃないか、という人も多分沢山いると思いますが、私は、常に私一人であって、その果てしない孤独を深々と引き受けて、フランクのように孤独を他人との共通項とする位の覚悟なら構いませんが、そうでないなら、私は我々に対する願望を社交性=世界性として、求めざるをえないのではないだろうか。 しかも、現在という大衆社会は、共通感覚がほぼ壊滅していますから、私の関心は他人に何の関心ももたれない、というのが事実です。

つまり、写真家が写真を撮っても、その写真に他人はまるで関心を持たないというのが、この社会の真実のルールです。そうすると、写真家は何をもって、他人に自分の関心をつないでいくのか、共通感覚に代わるものとして何をもってするのか、という事が問題にならないだろうか。写真に限りません。あらゆる表現の分野で、今最も問われていると思われるのが、この事だと、私は思います。表現とここでいっているのは、世界がそこに姿を表わす場を独自のやり方で用意する事、であり、それをできる人を私は写真家、ないしは、芸術家と呼びたい。無意識とか自己の内なる何かといった、個性的内面を内なるものと信じている人は実はとんでもない思いちがいをしている。無意識とは、結局父母からDNAを通して受け継いだものの別の呼び方にしかすぎず、つまりは少しも内なるものではなく、実は外部性に満ちたものにすぎないのだ。内なるものの神話は、近代に成立したものだが、個性とか、個人という近代的個性の幻想は、経済的自立を当然とする独立=indipendent自尊の個人に立脚しており、とうぜんながら、絶対的孤独の荒野に一人立つ人を理想に成立した。これは、あくまで、頭の中でだけ成り立つ計算的な概念であって、 E=mc2のような現代数学の範疇で成立する宇宙的なものである。人間は、自分の感覚世界では、太陽が地球を回っていると感じているのに、実は地球が太陽を回っているのが真実だ、というコペルニクスの数学的理論の前に、人の感覚は真実を感じ取る事はできない、という自身の感覚への絶望を味わった。そして、ガリレオが、次に人の造った望遠鏡で、人の感覚的正しさを伴って地球の運動を証明して見せた時、教会はこれを断固として認めなかった。それは、数学的推論が人の感覚を裏切っている間は、根源的な絶望へは、未だ距離があったが、人の感覚的精度の次元で数学的仮設が宇宙や自然の運動法則に届いているのだ、と認めることは、人は決して真実を感じることはできないと、認めることであり、これを認めれば絶望は取り返しつかない、という事を当時の教会は良く知っていた。地球に拘束されている幾何学から、近代数学が離陸した時、その数学的推論こそ宇宙と自然の真理をあらわしている、とすれば、人の地球拘束的経験は数学の数式に劣るのだ。こうして、経験は喪失した。今や、我々の時代の共通感覚は2+2=4という数式だけではないか。それが、現代資本主義における金儲けを一番支えている。

西井一夫 1996/8/7


●当日参加できず、以後是非参加したいとの連絡を頂いている人は、生井英孝、津田基、広瀬勉の諸氏。
●写真塾は写真の会とは相対的には無関係で、その中にある、或いは下にあるというような関係ではなく、別の意識で集まる有志の会であり、参加の資格などは問わない。勉強したい、という意欲があれば、誰でも参加出来、辞めるのも自由である。何をするかは、その回に参加した人の意見で変更しうるが、前回の決定は拘束力を持つ。会の時間内は原則禁酒・禁煙。終わってから、新宿あたりで、喉と腹を満たすささやかな懇親の機会を持ちたい。

■ 写真の会・研究塾 発足趣意書
写真の会は1989年に毎年2万円を拠出した者を会員として、その年の優秀作品に対して、非権威ではあるが作品の作者、関係者を直接励まし、その人柄・技術及精神を学び、親しく交歓し会うことを目指して始められた会で、組織というより、ただの雰囲気的な集まりでしかない。それでも、89年以来96年の今年に至るまで、都合8回の写真の会賞を贈ってきた。会報も既に35号を発行し、90人ほどに郵送している。先に西井が、会員を軸とする有志による写真に関する勉強会を提案した。しかし、その折には、事務方を勤めるボランティアが出ず、今回、再び呼びかけが行われ、奇蹟的に名乗り出があった。ということで、この度、西井を中心として、写真の会会員に限定することなく(何故なら、写真の会は写真家を会員に出来ないため、この勉強会に参加できなくなるから)勉強の意思のある者は誰でも参加出来る塾のような新たな会を始めたい。

□この塾は、個人の自由な自発的な意思によって参加する。
□従って、会からの脱会もしくは離脱は第一義的に保証される。
□この会は、誰か特定の者の演説や講演を拝聴する会にあらず。
□従って、会の運営は参加者の意思によって決められ、自らが参加して決定されたことは、参加者自身が責任を負う。
□会の内容は、基本的に参加者の相互の討議によって決めていく。
□会の進行も、参加者が議論によって決める。
□会は参加者の自己生活を破壊せぬ限りで運営され、一人に者に特別な負担が集中せぬことが望ましい。

この会が塾と称するのは、幕末の動乱期にあって、福沢諭吉とその塾生が、上野山戦争の真っただ中にあって、ひたすら平然と原書の講読を続けた、という故事を大事にし、我らも目先のことに右往左往することより、より根源的なことに眼を向け、暴力や力に屈することなく、歴史と世界の大いなる本流の中で深い視点を持ちたいという願いから、明治の人への尊敬の念を持つからである。 上のような、考えからこの塾では、狭く写真のことに限定しない、写真と一見無関係な分野や事柄も参加者の賛同を得られれば、広く視野をもっていきたい。塾は参加したいという意思のみによって参加者を迎え入れるのだから、参加してはいても、明らかにやる気のない者は、ご遠慮願うことがある。 塾は、討議・議論の場であって、特定の誰かを誹謗中傷することを目的とする場ではないから、誰かをやっつけるための場として、ここを利用せんとする人もご遠慮願う。 塾は一応、飲酒を禁止とし、禁煙も義務化したい。 会はとりあえず、事務方を楢橋とし、連絡その他の事務一般を引き受ける。 会を持つ期間であるが、まずは2ケ月に1回程度からはじめてはどうか。 その他必要な事柄は適時参加者の発議、討議によって決したい。

西井一夫 1996/7/16


■ 10月14日、第2回の塾がもたれた。参加者は前回とほぼ同じで、尾仲氏がかなり精密なるレジュメを造ってきた。他者の認識、から入りたい、という尾仲氏の希望で、「自分に関する事を「軽く」見るという精神」と「自分を「重々しく」見せよう」とする自己認識との対比からはじまり、先に云ったり行ったりする事が意味を持つ事への写真家としての批判的共感が述べられた。更に「何が第一次的に必要か」という比重感が失われ、二次的なもの、三次的なものが一次的なものを押潰している滑稽な状況を第一次産業の農業、第二次産業としての工業、第三次産業としてのサービス業という風にスライドさせ、写真という第三次産業に関わるものとしての「軽さ」に言及した。「他者の認識」という言葉をキーワードとして、この本を捉えようとした尾仲君の目論見そのものは、決して間違っては居ないと思うが、尾仲君のレポートは、いじらしいほど、著者の藤田さんに依っており、一冊の本をともすれば解説、要約する、という作業に傾き過ぎたきらいがあった。理想をいえば、本の要約ではなく、本に現れた、著者の思想への批判的指摘が、欲しいところだ。ただ、彼のレポートは、細かな数字で藤田本の当該ページとその引用とが示されており、その細かさは、驚き桃ノ木のレベルだった。しかし、それも結局は、本に忠実であるあまり、であり、本で得た認識を活用して、何らかの別の分析にたどり着くところまではいっておらず、その点がおしまれる。 次回は12月9日(月)。午後6時から9時まで。早稲田奉仕園セミナーハウス。 レポーターは荒井真治さん。扱う本は、藤田省三「戦後精神の経験」。 参加は誰でも自由です。フルって参加下さい。

■第5回は4月7日午後6時半から。場所はいつも同じ早稲田奉仕園。課題は、映画「ナッシング・パーソナル」を観ておくこと。これまでで、一番楽な課題です。2時間程度ですむ。参加費は、一人1000円です。興味のある人は誰でも参加できます。但し映画がいつまで上映されているか、保証はありません。情報誌で要チェック。

何年何月何日が大事。あしたではダメなんだ。