テキスト・アーカイヴ
■最近の写真的感想(初出:会報36号)
自分の最近の本が、珍しくいくつかのところで書評された。これまでもそうだったし、又今回も同じ感想を持った。結局のところ、人の言わんとするところは、絶対に他人にはきちんと伝わらないのではないか、という事だ。自分の本について書かれたものを読むと一体その人は何を読んで何を語ろうとしているのか、多分私の本ではないものを読んで何かいっているのだろう、という思いがするのだ。全体に書評なるものの大半はそのようなものであるのかもしれぬ。しかし、私は無理からぬことかな、とも感じる。およそ、いまの写真関係者に私の言おうとした事の万分の一も理解できるとは思っていない、というのが、失礼だが、私の本音だ。だから、勝手な読みをして、私が言っていないことを勝手にそういったことにして、それこそ揚げ足とりのように、少し批判する姿勢を見せる、といったポーズをおとりになる事などどうでもよい事であって、いちいち反論したり、反応したりしている暇はこちらにはない。だいたい、書評などその程度のもので、私は写真家諸君の如く、自分の作品へのかけた情熱とか時間とかそういうたぐいの量的な誠実性などはあいにくもちあわせていないから、誰がどう私の文をつかってなにを書こうが御自由に、という態度でいる。写真家諸君は、私が作品について何か書くと、まず、私がほめているのか、それともけなしているのか、そのどちらであるのかしかほぼ興味を示さない。そこに、明確なる言葉でもって、賞賛があらわれていない時は、彼等は大抵けなされたとかんじるらしい。素晴しい、とかこれまでにない表現だ、とか一歩前進した、とか何かそういう誰にもわかる賞賛の言葉がちりばめられていないことには、彼等は、その文が要するにみとめてくれているのか、はたまた否定しているのか、皆目理解出来ない人種のようだ。これまで、いろいろと私は写真作品について書いてきたが、最近ようやく簡単な事実がわかった。写真家は文がまったく読めない人が大半だ、という事だ。もちろんどこにも例外はある。しかし、経験からすると、相当本を読んでいる人でもことが自分の作品になるや、もういけない。明確に褒め言葉をつかっておらず、のらり、くらりと評価を先送りしている文には、すぐ褒められていない、という反応で、しばしば怒鳴りこんで来る。褒められたい、という愛情乞食ばかりで、ほめもしないし、けなしもしない、という留保の文は認めない人が圧倒的だ。そりゃ褒められリャ、気分いいだろうが、自分の作品について、あかの他人が頼まれもせずに何だかんだと、ああでもない、こうでもないと、考えこねくり回し書いてくれる、そのことだけでまず感謝すべきだ。一応、批評する対象に選ばれたのだ。魯迅がいっているが、最高の軽蔑は目玉一つ動かさず、無視する沈黙である。非難でさえ、無視よりはるかに高い評価をすでにあたえている。そこのところを写真家はもっとシビアに考えないとだめだ。私は書評してもらえるだけで、まず第一段階の評価を得たと考えるから、そこでなにを書かれようとびくともしない。以前「昭和20年東京地図」を「悪文の最たるもの」と書かれた。別に怒りも感じなかった。悪文でも、その人は内容に取り上げる価値を認めた、という事で、私は美文で褒められるより、ずっと私の書いた中味が評価された事になるわけだから、評者に悪意などこれっぽっちも持たなかった。だいたい、それくらいの自分の本との距離間をもっていないと、即喧嘩にならざるを得ない。写真家諸君はしっかり考えてほしい。



第2回重森弘奄写真評論賞が木下直之「写真画論──写真と絵画の結婚」に決定した。今回から、『forest』たらいう小冊子の顕彰会会報とやらを出し始め末尾に賞の選考経過なるものがでている。最終審査に私の『なぜ未だ「プロヴォーク」か』と『写真のよそよそしさ』の二冊ともが最終審査に残った。そして初出および出版期の指摘から「よそよそしさ」が除かれ、とある。昔の文と出版時期が7月25日で選考委員会の7月31日という時期に遅すぎるという事だろう。こういう技術的な指摘というのは、大抵落とす為の方便であって、曾例外ではおとせない、 という考えでだされる場合が多い。私は非難しているわけではない。選考委員は、飯沢耕太郎、金子隆一、平木収である。はっきり申し上げて、私はこんな連中から推薦して貰って何か賞など一向にほしくない。こんな人たちに私の書くものを評価できるとは、思わない。まぜていただかなくて結構だ。生意気なものいいで相変わらず人の顰蹙をかうた゜ろうが、そして、世間を狭くするだろうが、まっぴらこうむる。私にも褒めて欲しい人はいる。だが、断じてここに名前のあがっている人達ではない。私はこの人達を基本的には魯迅のごとく、目玉一つうごかすことなく無視する。