テキスト・アーカイヴ
■近ごろの写真に即してのReview(初出:会報34号)
■森山大道『犬の時間』

1970年を境とした64年から83年まで、本人の年齢で26歳から45歳の時の、今まで写真集に収録されていなかった物を集めたもの。
東京の写真の群れのなかに、突然かつて撮ってそのままにほったらかされていたニューヨークの写真が割り込んできた、と本人が、後書きで書いているように、場所的には、確かにニューヨークと東京とが圧倒的に多い。ただし、暇なので数えたら、そのほかにも、沖縄が15点、横須賀が18点、大阪6点、横浜3点、三沢2点のほか、札幌、酒田、倉敷、逗子、神戸、神奈川、なんてーのもあって、よーするに、森山氏がその当時やってた、ディスカバー・ジャパン的なニッポン全国周遊の旅にニューヨークが付け加わったアン・パブリシュド写真集というわけである。それが、当たり前だがとても懐かしくて、切なくて、さまざまな思いに駆られる。
私は、氏より8歳年少だから、この写真の当時は、文字通り20代のガキであって、いっぽう氏はギラギラしたメディアの寵児であって、カッコエェナーなんてどっかで嫉妬混じりに思っていた頃だった。アレが私は、一番好きで、二日酔いの胃袋みたいに感じていた。それに、あんまりディテールってもんがない、固めの焼きが、白か黒かはっきりしやがれ、といったふうな、当時の風潮には、ぴったりで、それも多分気に入っていたと思う。それに加えて、私が見た、という私的なマナザシは、大人たちという他人に見方や意見などを押しつけられたくない、てメえら死ね、くらいにしか年上の人たちを見ていなかった僕たちには、テメーらわかんねぇだろ、ザマァーミロという、今思えばハズカシいかぎりのアホな思い上がりのなかで、ミットもなく、氏の写真にまみれていた。そんな未熟で傲慢な若者の蹉跌然とした物にも思えて、氏には申しわけないが、回想記の趣がニジム。
とはいえ、そんな回顧にひたっている場合じゃないのだ。この本は、どっこいそんな甘さを、バッサリ突き放すだけの畳鰯的緊張感をもっている。画面は、十分にアレブレボケているが、編んでいる森山氏自身の精神は、この時代の雰囲気とは減茶切れていて、遠い時代とのDistanceを十二分にとっている。いや、とらざるをえないじゃないか、と声が聞こえそうだ。他人事みたいに云うな、おまえだって狂犯者のひとりじゃないか、と私の内からも声はする。わかっている、にもかかわらず、ここに紛れもなく写ってしまっている時代の雰囲気ってもんがやっぱりあるってもんでさぁ。身から出ました錆ゆえに、いまだ写真と縁が切れぬ、情けないとは、思うもの、情けの失せた世の中で、せめて繋ぎタヤひとナサケ、『ニッポン劇場写真帖』が青山ブックセンターでベスト・セラー1位だったけど、劇場的時代の過激なまでの信仰は、四半世紀を経て、浮き草のごとき野良犬の生き方に人の目を向けさせるのか? んなこたぁどうでもいいこった。ロバート・フランクについてこの冬まとまったものを書いたので、これを軸に本にまとめてもらおうと、考えている。ついでに宣伝しておくと、もう一冊「何故、未だプロボークProvokeなのか」というのも本にしてもらうつもりだ。つまり、1968年前後に20世紀の写真の分野での画期的な出来事は起こってしまったので、そこの原点に戻ることなしには、どこにも進めないことになっていて、そのことをはっきりさせて、下らない駄文書きどもに引導を渡してあげようと頼まれもせんのに考えている。再び、もとい、とにかくこの本に充満している、行き場のなさ、足が地に着いていない宙ぶらりんの落ち着きのなさ、暗い沈んだトーン、明るい希望のなさ、憂鬱で早く死んでしまいたさ、曇天の重苦しい圧迫感、行き止まり感、破滅的などーでもよさ、るっせーなというホッポラカサレ感、捨てられてあるという捨て子感、白日夢のごときシラジラした距離感、水平線が斜めにかしぐ平行感覚の異常感、視野狭窄感、すべてに対する云われなき恐怖感、寂寞とした荒涼感、砂漠か宇宙に一人取り残されたような絶対的孤独感、閉じ込められているごとき閉塞感、何をしても面白くなさそうな、すでに全てヤリ終わってしまったごとき既視感、全てがかつて経験したような終わってしまった、すでに遅かった、という喪失感、つまり、私たちは、何ひとつ観も、経験もしない内に、全てを奪いつくされて、あらかじめ喪失した生まれたての赤子のように無防備で、世界に打ち捨てられている、という漠とした不安がこのころ、私たちのなかにしっかり住み着いた、ということだ。多分、森山氏も私も往時漠然とこんな感じにとりつかれていて、そのまま20数年を経てきた、のではないか? ホントーニソーダローカ、トオモウガ? とまれ、めでたいかめでたくないか、知らないが、本は出て目の前にある。花札の姉ちゃんは、かわいくなった。「ニッポン劇場」と比較すると、宙ぶらりんの浮遊感が全体に色濃い、寂寞としたさみしさも、際立っている。この国にこの人ほどさみしい人はいない、というような(ある甘え)ところさえ感じられて、多少鬱陶しい感じもある。それでも、わずかな甘えに没入してしまい、若くはないのだ。distance=距離=よそよそしさを身につけたしたたかな初老にさしかかりつつある写真家である。毎度、会社から新宿へタクシーで行くおり、つい四谷三丁目でひっかかってしまい、朝まで(では済まぬ、昼まで)ナマ・とーくしてしまう、申しわけない。これもご縁とお思いくだい。
お元気で。またお邪魔します。



■百々俊二『楽土 紀伊半島』

撮影開始が1990年秋という。以後、勤め先の大阪ビジュアル・アーツの休みを使って、土曜、日曜、祝日、夏・冬の休みを紀伊半島通いに当てて通いつめ、撮りつめて、ほぼ5年の年月を費やしてようやく、一冊の本が仕上がった。九郎話は嫌いだが、これは、ただ単にそういう、年に約90日位しか写真を思ったように撮れない、という条件下でもめげずに、こつこつと(本人のイメージは全然似てないが)積み重ねることが、ちゃんと実績となる、ことが実証された、というめでたい話にほかならぬ。
が、写り始めた時、この本は成立する要件に到達したのだ、と思う。8×10という大型カメラを使用したことは、この本の大きな要件ではない。ただし、写真家が、人を撮る時に相手に近づきやすい条件は、作ったろう。(なんせ怖い顔してはりますし)風景はまだひと味たりない、と私は感じる。スナップがこの人の持ち味の本領であろう。だが、ここでは、これまでのスナップふうではなく、明らかに意識的に記念写真ふうに被写体にカメラを意識させてレンズを見させている。しかも、人がそこに居る、それが何のためにそこに居るのか、何とともにそこにいるのか? が一見瞭然とわかるように写されている。つまり、人はその人の生活とともに、とらえられていて、それは、当然だが、意図されている。紀伊という土地の「図鑑」となりえた、核心である。
アウグスト・ザンダーという20世紀の肖像をとらえようとした生真面目な写真家が私の脳裏に浮かぶのだが、日本にもようやく、そういうレベルで語りうる写真家が出てきた、ということかもしれない。ちょっとホメすぎかな、という気もしないではないが、本の印刷のレベルは、黒のしまりがよく大変よい。ただ、私の正直な感想では、この本で見るかぎり、紀伊もやはり決してもはや楽土などではなく、滅びゆく邦、終末の時を私は見せられている、と思わざるをえませんでした。でも、まだたしかに人の家がまだここにはあり、人が憩う場もまだある。「まだ(ある)」という感覚は隣に「もう(ない)」をくっつけている。かなしいね。そんな日本の悲しみ本線がここにはある。



■鬼海弘雄『や・ちまた』

以前『王たちの肖像』という本になった、浅草の寺の壁をバックスクリーンに見立てて、近辺で出会った人々を立たせて、撮った、正統派の人物写真が、その後も撮り続けられていて、それをまとめたものである。こういうひとつのまとめ方もあるのか? と思った。写された人たちは、幾つかに分類可能だが、そういう並べ方はされていないし、する気もないのだろう。勝手に類型化してくれ、ということなのだろうが、そして、それもひとつの姿勢だろうが、もうひとつの見方からすると、ただ面倒だからしないだけ、とかんぐれない、こともない。じっくり見れば、写真はおもしろい。写っている人がおもしれーんだもん。よく、こーゆー連中を見つけてくるよな。写真家の才能って、こうなると、撮ることじゃなくて、こういう人たちを見つける眼力のことなんだろうな、って思う。皆さんすげー顔してるよな。ホント。



■瀬戸正人写真展「リビング・ルーム」(コニカプラザ 1月25日〜31日)

瀬戸がここ数年プレイスMでやり続けてきた都会=東京に住む一人暮らしの若者たちの部屋でのポートレートをロールのペーパーいっぱいに焼き、それらを毛抜き合わせに隙間なく焼き続けていく手法での展覧方式を集大成した。まず、入るとこのひと繋がりのロールがずらずらと延々と壁を伝わって張り巡らされ、幾重にも折れて蛇のごとくうねりスペースの真ん中に設営された仮設の障壁に沿って二重三重に曲がりくねり、それが終わると、今度は、あたかも部屋のなかのように囲まれた空間に誘い入れられ、最後に、額に入ったオリジナル・プリントをしっかり見せられて、会場を出てくることになる。見事な会場構成だった。大型カメラでとらまえた精密な画面は、孤独な都会生活の物証として、隅々まで際立たせ、また、あたかも隣の部屋を覗き見るかのごとき個室同士の壁の薄さはプライバシーというもののないこの国のはかない個性の有り様を感じさせて、痛々しいほどのリアリティーをみせていた。こんな悲惨なスペースでさえも、恐らくはえらく高い家賃を支払って、ようやく確保しているのだ。お寒い現実である。が、これが現実である。ここから始めるしかない。コノリアリティーカラ。瀬戸のし遂げたこと、あるいは、やり遂げようとしていることは、現代日本のナマミのリアリティーともいうべき姿を、誰もが知っていて、何処にもいまだ示されることの少なかった現実、すなわち、R.フランクがアメリカ人を撮るときに言った、「そこかしこに、至るところに存在する物事について、即ち容易に見出されるが選ばれたり解釈されたりは容易にしない物事について語る」ということを今の東京でキチンとやった、わけであり、そのことの一点でも、現実とはっきり応答している。自分なりに、とか自分らしく、とかよくいわれる、ただの逃げ口上にすぎないガキどもと、はっきり、明確に異なって大人である瀬戸の、人柄が一等群を抜いて、ここに発揮された、といってよかろう。手バナシで賞賛しうる、だけの内容、そして、表現の質、さらに発表形式の見事さ、すべてのレベルで群を抜いている。こういう写真展が小さなギャラリーでわずか一週間程度しかやってもらえぬ、というようなダメな国なのだ。私たちが暮らしているこの国は。はっきりいって、くだらないどーでもいいような、写真展をやめにしてもらうか、辞退してもらって、こういうものにもっとスペースも日にちも融通しあうくらいの気持ちにならないと、写真なんてもうだめだよ。自分が一番、という自負は、確かに作家には必要だろうが、ほんとにアンタ作家かい。よーく胸に手をあてて、考えとくれ。恥も外聞もなく、ほめてきたが、それに十分価する、と確信する。決まりかな。



■島尾伸三『季節風』『生活』

2册の本だが、『季節風』から読むのが、順番というものだ。こちらには、父敏雄と母みほと一緒の生活が息子に及ぼした、らしい大きな影響と暗く深いこころの傷が究めて率直な語り口でつづられている。そういう不幸な生い立ちをした子が大きくなって、念願の、両親から離れた暮らしを手に入れ、幾つかの遍歴の末に、現在の妻である潮田登久子と家庭を築いて、「ゆったりとした生活」「豊かな精神生活」というものを獲得していく、そのような或る男の夢の実現過程としての半生期の写真付きエッセイと簡単にいってしまえないこともない。私は、彼が略歴で書き留めている1975年のガレリア・グラフィカでの「CHINA TOWN」という個展を「カメラ毎日」に載せるために銀座まで山岸章二と一緒に出かけたときに選んだ1枚、スコールに煙るバスだったか、を思いだしていた。『死の刺』という映画について書いた折りにも触れたが、その舞台となっていた小岩という土地は、私自身がそこで生まれ、7歳までいたところだ、という特別な思いがあって、この本でも書かれている、母が幼い兄弟を道連れに鉄道自殺をしようとする、それが伸三が5 歳の時で1953年、私が小岩を離れた1年後である。「母の狂気」と伸三は書く、その「家庭という名の砂漠」で「食い散らかされた羊」として自分を意識している子が「自己のみを対象とした男」である父を素直に認識しえないことは仕方ないことだろう。父の死後ようやくにして、子がこれだけ両親への率直な言い方で言葉を紡げたのだ。島尾は、やはり父に似て究めて自分自身にしか関心をもたない男だった。父も写真を手なぐさみしたが、子は大学まで行ってこれを職業とした。それは「言葉の通じないところへ行き、沈黙の中で景色だけを手掛かりに世界を眺める」ことを望んだからで、「生産性を高める欲望の手先」「時間をかけて察知する手間を暴力的に排除する」言葉を職業とした父へのアンチ・テーゼのように写真が選ばれている。だからこそ、子は「写真は記録である」とか「言語にしやすい象徴化済みの人為記号」や「現象に近い自然記号」によって飾りたてる写真を否定し、「できるだけ単純な記号だけが画面の中に在るようにし、公的意味の発生しない」「極私的な些細な」気持ちの「仮の記憶装置」として写真を撮っていこうとした。しかし、にもかかわらずそれらの気持ちによって撮られた写真の前で、多くの人は、語るべき言葉をもたず、無口にただつまらないものとして、その写真を否定した。見た人たちの大半は、意味のない写真、無価値なものと感じた。彼らはそのことにまた傷ついた。そういう「無理解の不幸」を体験したことが、島尾らに「言葉の解説を作品中に用意するという逃げ」の姿勢をもたらし、「言葉という通訳や象徴」を写真に配する癖をつけてしまった。まことに不幸なことだ、と言わざるえをえない。島尾は「いつでも目にすることの可能なありきたりのものばかり」を写してきたが、それは被写体への要求が薄く、意味づくしに興味が向かないだけのことである。自分をキュウリ、妻を西洋ナシ、子どもを白磁のニンフと呼んで、ほかにも青トマトやナイフとフォークのカップル、セミとバッタの兄妹、家主の娘はナス、アオマメ、ジャガイモの三人など島尾の生活はどうやらおとぎ話の不思議な国のアリスの世界のようなのである。鬱陶しいことから可能なかぎり遠くにあって、気楽に生活楽しみましょう、という誰も拒否しようのない、日本的な「安楽への隷属」において、今ここにある、子どもじみた保育器のごとき雰囲気を切り捨てることはやめようと思う。その前に小さなはかない場であっても自身の生活の場において、「何が起きるかわからないせっかくのスリル」を逃さぬよう、予めのことを用意するなどという愚挙を拒否して「圧倒する現実」の前で「肝をぬかれ」ない「知覚」を保ちながら、常に生活の中にあって、驚きに積極的に遭遇しようとする姿勢を「よし」、としたい。何故なら、驚きこそ関心の母であり、驚きのないところには、いかなる認識もないからである。この驚きへの姿勢があるかぎり、彼の写真や仕事はプリントのペラペラな薄さの裡に或奥行きを感じさせるものになるだろう。自分の作品を「息の浅いもの」と自ら述べている。眼が確かに在る、ということだ。作品を長い、短いという、取り組む時間の長さで計るようなとこが、この国にはまだ根強くある。しかし、島尾の眼は長さのレンジではなく、浅い、深いという深度へ向いている。器の違いだ。そのエピソードがある。バスに乗っていた時のこと、ふと後ろを見ると人を満載したトラックが走っていて、人々が一斉にこちらに手を振っている。若い旅行者はこの絶好の写真的チャンスに思わず返礼の手を上げてしまった。思い返してカメラを構えた時には、決定的瞬間は去っていて、チャンスを逃した後の「あてがはずれた」ドコカぼっけとしたものがある。世界は、写真に撮られるためにあるのではない、というごく真っ当な感性がここにあって、ベトナム戦争の折、日本のカメラマンが戦渦から逃れて来る難民を撮って「安全への逃避」として賞までとったことに、何故このカメラマンは手をさし延べずに写真を撮ったのか、という古くて繰り返される煩悶を彼ははからずもクリアしている。この予めの体質において島尾伸三の写真は、或る種のピュアさを感じさせるのだ。