テキスト・アーカイヴ
■写真の会賞受賞に聞く 元村和彦さんの巻 No.2(初出:会報39号)

写真の会賞も10年目を迎え昨年、会の運営、存続の意義を含め、このままで良いのかという問いかけがなされた。

会員による話し合いの中、写真の会賞の見直しの意味で、過去の受賞者達の話を伺う機会を改めてもうけて会報で報告しようという事になった。

写真同時代を生きる人に接し、考えを知ることは、同じ写真に関わる者としては当然の行為であろうし、「小さいが真摯な会話と交流を」という写真の会発足時の願いに則したものだ。

そこで、'97年第9回写真の会賞受賞者であり、これまで「私の手の詩」や「花は……」といったロバート・フランクさんの写真集を手がけてこられた元村和彦さんにインタヴューを引き受けていただいた。

前号では主に元村さんが写真に関わる事になった経緯や日吉の写真学校時代の事、さらにフランクさんとの出会いと写真集の制作過程等を伺った。

今号では編集者として、また異邦の友人として深い関わりを持つその立場から、フランクさんの写真家としての生き方、そして元村さん御自身の考えを中心にお話しを伺う事ができた。



────元村さんはフランクさんの作品の中でとりわけお好きなものは何でしょうか。

元村──そうですね。「パリの子どもと馬」。老いさらばえた馬がいて子どもたちがからかっている写真があるでしょ。あれを僕は好きで、これが好きだ、とフランクさんに言って一番初めにあのプリントをもらったんですよ。

────フランクさんの映画やビデオといった映像だけをまとめて日本でやられるという事は?

元村──僕は何本か持っていますけど……。「プル・マイ・デイジー」と「アバウト・ミー・ア・ミュージカル」というのは16ミリで持っています。「私の手の詩」の褒美としていただきました。

────「プル・マイ・デイジー」は一番最初の作品ですね。

元村──そうですね。「プル・マイ・デイジー」はこの前、横浜でやりましたが、ビデオにもなっていますから。その他に「ホーム・インプルーブメント」。など、ビデオを何本か持っているんですよ。

────「プル・マイ・デイジー」は映画の実験的な世界でも評価が高くて影響力もありますよね。

元村──あの一篇で評価が定まってますものね。ジョナス・メカスも……。

────ジョナス・メカスとは親しかったんでしょうか。

元村──親しいみたいですね。

────あの最初の作品に対しては、ジョナス・メカスは非常に高い評価を与えていますね。

元村──そうですね。

────ところで、フランクさんの引越し先がノヴァ・スコシアのマブゥであったというのは何か理由があるのでしょうか。

元村──やすらぐ場所が欲しかったんじゃないのかなぁ。

────フランクさんはお金を稼ぐ生き方とか、巨匠としてまつりあげられる事をどこかで必死に避けられている感じを受けるんですが、それはどこかでいつまでも自分が自由でいたい、っていう気持ちがあるのではないでしょうか。それが逆に彼を神格化していく事になっていると思うのですが。

元村──やっぱり彼は、ビジネスマンとアーティストというふうに分けるんですよ。写真家も。誰がビジネスマンとは言いませんけど。そういう分け方をなさいますね。だから自分はアーティストだと。

────フランクさんは作品にもみられるように詩的表現をうまくあやつるという印象があるのですが、元村さんとの普段の会話の中で、あるいは手紙の中で詩的な表現を感じられる事はありますか。心に残る言葉とか。

元村──1979年でしたか、「状況に絶望しないで明りを求めて、それを目指して進もう」と、そんな事が書いてありました。それが心に残っています。最近だと、「山は上る時よりも下る時が難しい」。ゴールに近い年代の人間として、大事に受け止めています。僕は英語が駄目な方ですから、家主さん、高野さんとおっしゃるご婦人ですが、その方に手紙を読んで貰ったり、添削して貰ったりしていたんですね。その方が、フランクさんのことを、易しい言葉を使って深い表現をなさる方ですね、って。ところどころ文法がおかしいところがあるけれど、と。フランクさんがはじめて日本においでになったとき、君は誰に翻訳して貰ったんだって聞かれて、その方、ひと月半程前に亡くなられましたって言ったら、非常に格調高い文章だったよって。高野さんって方は、若い頃サークル活動で三枝博音さんに兄事しておられたようで、歳をとってからでも向学心旺盛な方でした。埴谷雄高さんのことも、よく知っておられて、「私の手の詩」のことで埴谷さんに原稿をお願いしたとき、口添えしてくださったようです。埴谷さんからそのことを聞きました。ご主人は、吉田茂の秘書官や公取の委員などしておられた方です。僕が知り合った頃は、テレビ朝日の前身の日本教育テレビの副社長をやっておられました。僕が税務署を辞めた後、テレビ局でのバイトを世話して貰って助かったことがあります。昭和39年に亡くなられました。まだ50代前半だったと思います。奥さんは聡明で、人間的にも尊敬できる方で、いろいろ教えられることが多くて、僕の人生の師でもありました。いつの頃だったか、フランクさんに、僕のことはロバートと呼んでくれと言われたことがあったんですよ。それでDear Robertで書き出した手紙の添削をお願いしたら、いくらご本人がそうおっしゃっても、あなたは日本人でしょう、フランクさんを尊敬していらっしゃるならミスター・フランクと書きなさいって。フランクさんはきっと、そのことをお喜びになりますよって。ずっと、その教えは守っています。

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