テキスト・アーカイヴ
■写真の会賞受賞に聞く 元村和彦さんの巻 No.1(初出:会報38号)

────元村さんは映画がお好きですよね。

元村:観るのはね。もともと綜合写専に入る時にニュース映画、記録映画を撮りたいから写真技術を学ぶために、と志願書に書きましたけど。

────実際にニュース映画は?

元村:まったく撮ったことはないです。

────ドキュメンタリー指向だったんですか。

元村:そうですね。劇映画ということはまるっきり考えられなかったですね。

────やはり自分でやりたかったってことはあったんですかね。

元村:1人でやるにはドキュメンタリーしかなかったということじゃないんですか。また実際にどういうものをフィルムで撮りたいということはなかったんですが、漠然とね。僕はずっと勤めが公務員だったんですよ。その時に、労働組合の役員か何かになったりして、分会の段階だけど34年に職場大会が勤務時間内にくい込んで、いっぺん停職になったことがあるんですよ。1ヵ月の停職に。で、2回目の、安保の時も、まぁこれでクビかなぁと思ったんですよ。それでとにかくクビになってから、食う道を考えなきゃというんで日吉の学校に行ったんです。

────それは何歳の時ですか。

元村:えーと、僕は昭和8年生まれですから……27歳。僕は普通科の3期です。

────1958年ですよね。日吉の学校(現東京綜合写真専門学校)ができたのは。

元村:僕が入ったのは60年。下落合ですから2回目の校舎ですね。

────どこの官公庁にいらっしゃったんですか。

元村:僕は税務署にいたんです。武蔵野税務署、それから立川税務署に6年位ですよ。ちょうどうちの係がね、土地の売買で……。あの辺は多いんですよね。それで、うちの係の連中が汚職をやって、係がほとんど、6人位やられたのかな。それで僕はすぐ切り離されて世田谷税務署に。それでもうそろそろこの辺でと。日吉に学校が移った頃でした。

────その当時の事をお聞きしたいんですけど。教授陣と言えば石元さんがいらっしゃったり。

元村:そうですね。研究科ができて。僕は研究科の1期なんですよね。重森さんが理論面を、石元さんが実技面をということで。その時重森さんが研究科はこれからロバート・フランクを研究するんだ、と言ってね。それからなんです。ロバート・フランクとの付き合いは。それで石元さんが「アメリカ人」を買うんならフランス語版がいいよって言ってね。

────どうしてですか。

元村:印刷がいいっていうことでね。

────その辺をちょっとお聞きしたかったんですけどフランス語版のデルピールさんのものとアメリカ版のものとの違いについてフラ ンクさんは何かおっしゃってましたか。

元村:そんなことはまるっきり聞かないんですよ。フランクさんと会って写真の話をあまりしないんですよ。

────フランス版の場合はアメリカ版と全然つくりが違いますね。

元村:ええ、テキストがまるっきり。

────その辺どう考えていらっしゃったのか。フランクさん自身はテキストなしで出したいという気持ちがあったのでは。

元村:こんど9月に会いますから聞いておきます。

────デルピールさんの場合、どうしても編集の本になってしまいますよね。デルピールさんの冴えていた時ですよね。

元村:そうですね。

────テクスト自体もかなり面白いですね、内容としては。いろいろなアンソロジーが文章から引用されていて。

元村:あの本が出る前にUSカメラ年鑑で「アメリカ人」を特集していますね。あの組み方から見ると編集の人がやったんだろうな、と。まるっきり違いますものね。

────ところで、日吉の学校には何人位いらっしゃったんですか。

元村:何人位でしょうね。とにかく昼間は洋裁学校じゃなかったのかなぁ、下落合の校舎は。だから入る時は多くてもだんだん減っていくんですよね。上手い人は飽き足らなくてやめちゃうんですよ。それで僕等みたいに初めて写真撮った人間は残るんですよね。

────どんなカメラを持っていたんですか。

元村:ニコンFです。ニコンFが出たばかりで。給料1ヵ月分以上でしたね。確か4万円位じゃなかったかな。当時の給料はそれ位だったんじゃないのかしら。

────結局税務署はクビにはならなっかたんですか。

元村:ええ、クビにならないで、辞めちゃいましたけれど。

────日吉を卒業して辞められたんですか。

元村:いや、研究科の途中で辞めました。あの頃は研究科は修業の年限というものはなかったんですよ。とにかく授業料さえ払えば、いつまでもいられるんですよ。2期の連中と僕等一緒で、有田泰而君とか佐藤邦子さんといった人達が後で加わって。3期の連中が入ってきた時に、やめました。古株が残っていると煙たいみたいでしたので。

────操上さんもそうですね。

元村:操上君は研究科に入ってないんですよ。彼は昼間の生徒ですからいっしょになったことはありませんでした。

────篠山紀信さんも?

元村:篠山君も夜、しばらく一緒の時期があったんですよね。その頃普通科っていうのが初期の過程で6ヵ月かな。その後専門科っていうのがあって1年。そこのところで報道写真部門と商業写真部門に分かれたんですね。

────秋山忠右さんも同じだったんですね。

元村:秋山君は昼の生徒で、研究科になっていっしょになりました。それでロバート・フランクを研究するというので重森さんがとにかく調べてこいといって。アイウエオ順で秋山君が最初に発表することになっていて彼、当日来ないんですよ。 (笑)それで結局本格的な研究じゃなく、ダラダラダラーっとなっちゃったんです。

────石元さんがロバート・フランクをうまく受けつごうという形で。石元さんはそれに関しては?

元村:石元さんはとにかく僕等が撮ってきた写真を見てくれるだけですけど、「アメリカ人」の見方とか、時々話が出ましたね。

────フランクさんとは傾向は違いますけど。

元村:石元さんはねフランクとクラインの中間をいきたいとおっしゃってましたね。あれは、カメラ毎日だったのかな。「東京の顔」とかね。石元さんはまたあの頃、冴えていましたからね。東松さん、長野さん、石元さんの3人がカメラ毎日かなんかで共作したことがありましたね。「羽田」だとか「新宿」だとかね。それで誰がどっちを撮ったか、それはもう全部伏せて編集部が編集してカメラ雑誌で出したりしてましたね。誰が撮った写真か探ったりして面白かったです。ああいう試みっていうのは今はないですね。

────72年に写真集「私の手の詩」が出るわけですよね。フランクさんと会われたのは?

元村:もともとはユージン・スミスがフランクさんを紹介したわけですよ。ちょうどその頃、僕は出版をやりたいということで、日本の作家にも何人か会っていて、たまたま森永君と会って、それでユージン・スミスの回顧展をニューヨークでやるけど、ユージンは日本でもやりたいって。朝日新聞社にユージンの手紙を持っていったけど、どうやら断わられそうだという話を聞いたもので。その時、森永君がニューヨークに行った時にロバート・フランクに会いそこねたという話を聞いたんですよ。自分が都合が悪くて行けなくて、小川隆之君だけが会いに行った。それはユージンの紹介だったんですよね。それでユージンはロバート・フランクとは親しいのって聞いたら、親しいということで。それじゃあ、ユージンが僕をロバート・フランクに紹介してくれたら展覧会引き受けるよって言ったんですよ。それで森永君がユージン・スミスに手紙を書いたんです。そしたら紹介する、というんでニューヨークに行ったんですよね。

────森永さんはユージン・スミスの助手をやっていたんですよね。

元村:ええ。「日立」の時にね。それで、その時にドブ河の写真を見せて、彼が気に入って、それで採用されたんですね。

────「日立」のプリントは森永さんが仕上げをやられたんですか。

元村:やったものもあるかもわからないですね。一番初めにテストさせられたのが、「ピッツバーグ」の煙りのロングの写真ですね。テストに泣かされたって言ってましたね。

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