テキスト・アーカイヴ
■写真の「記録」について知っている二、三の事柄(初出:会報45号)
第二ミレニアムの最後の年、1999年は、慌ただしい年であった。単なる数字からの連想か、20世紀最後の年と多くの人が錯覚したくらい(確かシュタイナー関係の人の話で、アラビア数字の0という概念がヨーロッパに伝わったのが紀元後だから、2000年を21世紀の最初の年にしても良いじゃないかという真面目な論もあったくらいだ。実際、年が明け、ほとんどの人々が「新しい世紀」の気分でいるのではないか。)20世紀を回顧する企画が多かった。

毎日新聞社刊の『シリーズ20世紀の記録』をはじめ数多くの全集、グラフ誌、また一年分をまとめて週刊誌として刊行された雑誌もあった。それらの多くは文字以上に、夥しい写真によって構成され、編まれたもので、まさに20世紀が「戦争の世紀」であると同時に、「写真の世紀」であったことを証明した。

写真の世界に活気があったような気にさせる程、写真が利用され、人々の目に写ったということだ。同様に、写真展も20世紀を記録する企画が多かった。ざっと例をあげれば、6月に渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムで開かれた『写真が語る20世紀「目撃者」展』(6/11〜7/25)、木村伊兵衛写真賞の歴代の受賞作を集めた『「木村伊兵衛写真賞の軌跡」展』(川崎市市民ミュージアム6/20〜8/1)、『「20世紀はどんな時代だったのか」横浜展』(有隣堂ギャラリー8/12〜19)、『日本の写真1850s〜1945』(姫路市立美術館10/2〜11/7)、そして、東京都写真美術館の『「10人の写真家の眼 20世紀日本の記憶」展』(7/27〜8/29)があった。

姫路市立美術館には全国各地から、また文化庁からも「参考にしたい」といった、問い合わせが寄せられたという。そう、文化庁といえば、昨年6月に日本人が撮った最古の(今のところ)写真『島津斎彬銀板写真』(1857/尚古集成館所蔵)が、写真としては初めて国の重要文化財に指定された。要するに、ようやく国が歴史的資料としてのその価値を認めたということである。勿論、美術作品としての価値ではない。今まで写真をめぐる環境が整備されておらず、このままだと数多くの写真が散逸してしまう、という恐れから国で保護すべきだという方向でここ数年動き始めている。その象徴的な出来事であった。それは、資料的価値を認めた上で、どの写真がどこに、誰の手にあるか、というデータべースづくりのための特別な機関をつくる程の熱心さである。

とはいっても、射程は当面、幕末から明治にかけての写真に限られているのが現状である。国に先立って、2月には大阪市議会でも、大阪の歴史を伝える貴重な文化財を守る文化保護条例が可決された。今まで国が保護の対象としなかった写真やフィルムも文化財として認め、「貴重な語り部」として残そうという訳である。

こうした写真の保護の動きと連動するが、1999年の大きな動きとしてはっきり現れてきたのが、「デジタル・アーカイヴ」。つまり、美術作品などのデータベース化、CD-ROM化である。例えば広島市の原爆資料館では、これまで展示スペースの関係で400点しか空間展示できなかったが、被爆資料13200点を写真デ−タ化し、平和学習などの活用にむけて、今年秋から公開していくという。

また凸版印刷、日立製作所、朝日新聞社が共同出資したデジタル画像制作会社がルーブル美術館やオルセ−美術館など33のフランス国立美術館が所蔵する美術作品をデジタル化し販売する。その他、大日本印刷がPHP研究所と共同でデジタルアーカイヴ事業に乗り出す。室町時代から明治初期までの約400年にわたる「狩野派」の作品をデジタル化し作品検索や仮想現実体験などができるシステムを開発した。これらはほんの一部の例にすぎない。このように文化庁や地方自治団体は歴史資料としての写真を保護し、一方、経営的な巻き返しを図る印刷会社をはじめとした企業は、手段としての写真を利用し、商品化をする。といった構図がはっきりと見てとれる。こうしたことは3000年紀に突入してますます加速していくに違いない。

そして一方、視線を写真を撮る側に向けてみれば、相変わらず公募展でも極私的日記写真?いわゆる“女の子写真”が隆盛で、まずアルバムがあって、そこに写真をはめ込んでいくという、「何を撮りたい」のではなく、空白を埋めるための写真が多いように感じる。これはプリクラ写真をノートに貼り込んでいくという行為と本質的に変わりないのではないか。現在、写真のにぎわいを支えているかに見える2つの極、大人の側のデータ化による保護と商品化、子どもの側の写真による日記。絶望的な程、乖離した現象のようでありながら、一つ一つ記録することが目的化し、どこか精神的な安定を確保しているという点で通底する。これも写真の特性なのだろうか。写真は「何を記録できず」、「何を伝えられないか」を知る必要があるように思える。