テキスト・アーカイヴ
■『トオイと正人』出版の瀬戸正人さんに聞く(初出:会報41号)
生井:瀬戸さんは森山大道さんたちの「キャンプ」のメンバーだったんでしょう?

瀬戸:いや、ぼくは外野です。メンバーにはなってない。

生井:あれ、そうだっけ?

瀬戸:うん。ぼくは、ほら、コマーシャル写真でアシスタントやってたからとても自分の写真撮って発表するなんていう時間もないし。だから周りをうろちょろしてたけど、まあ 見てただけですね。ただ、森山さんは写真学校の先生でもあったからその前から知ってたし、森山さんがキャンプの場所を使って森山塾っていうのをやったんですよ。そのときは仲間に入ってた。

生井:それは何年?

瀬戸:197……7年ぐらい。24のとき。

生井:森山塾の仲間はどんな人たち?

瀬戸:入れ代わり立ち代わりですけど、いまでも写真撮ってる人はいないかな。

生井:そうか。てっきりキャンプのメンバーだったと思い込んでた。じゃあ自分の写真を撮り始めたのは?

瀬戸:82年ですね。そのとき大人になってから初めてタイに行った。で、83年に初めてニコンサロンで自分の写真展をやったんですよ。それは決めてたことがあってね、30歳になるまでに一回はニコンサロンで展覧会やろうって決めてた。そのころ生井さんはアメリカにいたんですか。

生井:そうですね。ぼくは飛び飛びにアメリカに行って勉強してたんだけど、81年から82年にかけてはアメリカ。

瀬戸:『ジャングル・クルーズにうってつけの日』のころ?

生井:あの本の最初のリサーチを始めたばっかりのころですね。そのころは本を書くとは 思ってなかったけど。

瀬戸:あれ、夢中になって読みましたよ。ほら、ちょうどヴェトナム戦争の話だし、ぼくのいたウドーンタニは米軍の基地があったから。

生井:空軍基地ですよね。アメリカの資料には「ウボン」と書いてあるけど、そことウボンに戦略空軍の基地があって、毎日北爆に出撃していたし、70年代になるとカンボジア 爆撃の拠点になる。瀬戸さんがタイに行った82年ごろというのはヴェトナム戦争が終わって十年という節目を迎えるころなんですね。ヴェトナム戦争自体は1975年にサイゴンが陥落して、そこでようやく終わったんだけど、実は1973年というのがアメリカの正規地上軍がインドシナ半島から全部引き揚げた年なんです。特殊部隊とか海軍はまだ残っていて、フィリピンのスービック湾は米海軍の大きな基地があったし、タイにもウドーンタニに空軍の基地があったんだけど、陸軍と海兵隊は全部撤兵した。だからアメリカの普通の人たち、つまり自分の夫や息子が徴兵でとられてヴェトナムで戦死するという心配をしなくてすむようになったのが1973年だったわけです。で、それからちょうど10年めという1983年が 迫ってきたころから、ハノイ政府が元米兵だったアメリカ人たちを積極的に公式招待するようになったんですよ。旅費は出ないんだけど、ヴィザを発給して招待する。それで 昔ヴェトナムで戦争した帰還兵とかジャーナリストとか戦争写真家たちが1982年から87 年ぐらいまで次々にヴェトナムを再訪していくことになった。

瀬戸:じゃあ、ちょうどタイミングが合ったわけだ。そういえば何となく覚えがありますね。

生井:瀬戸さんは1953年にウドーンタニで生まれて、8歳のときだから1961年に福島に来てあとはそこで育ったわけですね。ということはケネディ政権のときだから、ヴェトナム 戦争の準備が整いつつあったころということになる。だから戦争が始まったときはTVで見ていたわけだけど、お母さんはもともとヴェトナムの人だから……。

瀬戸:TVを見て泣くんですよ。特にぼくのお祖父さん、お袋のお父さんがヴェトナムにいるから。

生井:お母さんはそれまでヴェトナムに行ったことはあるんですか。

瀬戸:ないです。タイのヴェトナム人の社会に生まれて育ったから、行ったことはない。

生井:ヴェトナム語は話す?

瀬戸:お袋はヴェトナム語とタイ語。

生井:と日本語?

瀬戸:うん。でもいまでも上手じゃないですよ。あいうえおも一生懸命勉強したけど、書けるのは自分の住所と名前ぐらい。手紙は書けない。

生井:瀬戸さんはヴェトナム語は?

瀬戸:ほとんどできない。タイ語と日本語だけ。

生井:『トオイと正人』のなかで白眉のひとつに、82年にタイに行って暮らしてたとき、突然タイ語が頭のなかに蘇るところがあるでしょう。あれはほんとに突然?

瀬戸:そうそう。それまでなんとなくわかるんですよ。で、どこかでね、『わかるぞ、きっとタイ語が出てくるようになるぞ』っていう予感はあるんだけど、出てこない。それが あるときぱーっと出てきた。ひとつ出ると次々出てきて、聞くだけでどんどん覚えていく。

生井:念のため確認しておくと、瀬戸さんは1953年にウドーンタニで生まれて、8歳で福島に移ったわけですね。それまでは日本語は全然知らなかった。

瀬戸:そうです。でも福島に来てからは、やっぱり子どもだからね、さーっと日本人になってタイ語は全然わからなくなってた。

生井:それから福島で高校まで出て、大学は工学部に行こうと思ってたんですって? 何をやりたかったんですか。

瀬戸:電子工学をやりたかったんですよ。高校3年になるとき理数系と文系にクラスが分けられるじゃないですか。そのとき理数系のほうに入って。数学大好きだったし。

生井:電子ですか。機械とか化学じゃなくて。

瀬戸:そう。ちょうどね、これからはコンピュータの時代に入ってくだろうってちょっと思ったし。

生井:でも写真学校に入ることになって。写真はそれまでやったことはなかった?

瀬戸:家が写真館だから親父の手伝いで暗室とかはできましたけど、アサヒカメラとか買って写真状況がどうなってるだろうなんていうのはまったくなかった。

生井:写真学校に入ってからはどういう立場をめざしてたんですか。

瀬戸:とにかく技術を身につけて食えるようになるってことですね。もともと技術的なことは大好きだし。自分の作品撮るなんて考えてなかったし、どう撮っていいかもわからなかったから。コマーシャルの写真はね、着地点がはっきりしてるでしょ。だから自分が なにをすればいいかわかるわけで。

生井:でも学校で課題とか出されたでしょ。

瀬戸:そう、だからどうやっていいかわからなかった。スナップショットなんてどう撮っていいかわからないし。楽しかったですけどね。森山さんとか東松(照明)さんとか深瀬(昌久)さんの作品とか見て、こんなふうに撮ってもいいんだっていうのが。

生井:それより前の世代の土門拳とか木村伊兵衛とかは?

瀬戸:見てなかったですね。後になって学習したというか。とにかくそういう意味じゃ森山さんたちのから始まってる。でも自分の作品撮り始めたのは82年に独立してから。そのときはすぐ仲間と3人で事務所つくって、でもまだすぐだから仕事もそんなにないし、やっと暇になったんでタイに2ヶ月行ったんですね。それから帰ってきてまた半年して行って、あとはずっと行ったり来たり。

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