テキスト・アーカイヴ
■クリスティーネのいた場所 架空の物語をそえて(初出:会報40号)
もし一人の作家が死んだ妻の思い出を綴ろうとするなら、彼は彼自身の「文体」によって過去を再現し描くことが可能である。生きていた頃の妻の姿を思い出し、書こうとしている現在の気持ちに見合って描き方を選び取ることが出来るからだ。

ところで写真家の場合それは可能だろうか。一枚の写真が撮られるのは常にその時の現在である。彼は一貫した「文体」で作家のように「亡妻記」を構成することが出来るだろうか。たぶん可能だろう、ある条件が許せばである。その条件とは恐らく、既に想定された死を踏まえて写真を撮り続けることか、彼が撮り続けた写真の延長にこれといった破綻もなく妻の死が訪れるか、あるいは一貫した「文体」で妻をその過去から再構成できるほど膨大で緻密な写真が残されていた場合だろう。

私はこの古屋誠一氏の妻についての写真集『Christine Furuya-Gossler Memoires,1978-1985』に、その様な条件が可能だったとは思えない。彼の妻クリスティーネはその結婚生活の途上、生木が折れるように「Endogene Psychose(内因性精神病おそらく精神分裂病)」を罹病し、そして突然の死、自殺によって人生を閉じた。しかもこの内因性精神病は、身体の病とは違って「人間性」そのものを襲う苛酷な病である。人間の存在の仕方が何ものかによって強引にねじ曲げられてしまう様な逆境を強いる。

だとしたらこの写真集を貫いている一貫した「必然性」、揺るぎの無い構成と視点はなんなのかと思う。彼女との出会いから、妊娠と出産、発病とその死までほとんど変化を見せぬその視点の統一性とは何か。

おそらく私はある種の「錯視」に巻き込まれている。既に知らされた結末の方から、過去を振り返った時、あらゆることが結末に向かってその様に見えてきてしまう、その様な錯視が成り立ち、そこに必然を読み取ってしまっているのだろう。しかし、そう内省したところで、それを打ち消す根拠を私はこの写真集のなかに見つけることが出来ない。ここに載せられている写真の一枚一枚は、クリスティーネと呼ばれる女性の存在の仕方、あるいはある人間のおかれていた確かな場所を変わることの無いリアリティをもって告げている。

古屋氏は彼女とのその出会いの時から、すでにその後の彼女を予感していたのではないか、あるいは彼女そのものがそんな生を送らねばならない必然を持った存在としてあったのではないか。私の心のなかにそうした疑問が隆起する。

勿論こうした言い方は穏当ではない。しかしあえてそうとでも表現するしか無い様な複雑で、重い、愛惜感を、この写真集は我々に強いてくる。

ここに白と黒の世界がいつまでも続いている。1978年から1980年にかけて、特別変わりばえのしない、ごくありふれた日常が積み重なる。奇をてらった構図も無く、愚直なほどクリスティーネを中央に据えて静謐な写真が続く。時間が経時的に重なり暦のように過ぎてゆく。その表情や辺りの状況にかすかな変化はあるものの淡々と、アートというよりささやかなクリスティーネのドキュメントとしての写真が連続する。

だがしばらくして私に不思議な感覚が湧いてくる。ここには何かが欠けていると。それを言葉に表すことは難しいが、それをあえて表現してみる。例えばここには季節が無い、そう言ってみたい。光を浴びて屋外に立つ彼女にも、部屋でくつろぐ彼女にも、背景には秋や夏があるにもかかわらずクリスティーネを取り巻いてやはり季節が見えない。光がありながら、熱や温もりや見えない汗が伝わってこない。何か予感が蔓延っていながら生活の息吹と猥雑さがあふれていない。無数の思い出がありそうだが開けてゆく夢が漂わない。淋しく異質な美しさがあっても、それは何処か整理された光と影が作る空間のなかに納まり退いてゆく。

そうした奇妙な欠落の対比の感覚から、ふと、果たして彼女に笑顔があっただろうかと、不安な気持ちが甦る。ページをめくり直し確かに私は彼女の笑顔はあるのだと確認する。しかしこれは本当の笑顔ではない、と思う。これは人を切なさへと誘う笑顔だ。決して安堵の心を緩みを与えない。

1978年古屋氏が彼女との出会いとして冒頭を飾るクリスティーネは笑っている。しかし私たちはその深い影の中から、その微笑みを捜し出さなければならない。何故なのか。それが本当の答えかどうかは分からない。その日の数カ月前、クリスティーネは結婚を希望した青年との関係を断ち切られ、手首と頚動脈を切って自殺を図ったと記載されている。あるいはまた消え入るほど暗くつらそうな彼女の墓石の前での写真の裏に、1974年、彼女は父を亡くしているとあった。それ以外の彼女の過去を私は知らない。そのふたつの過去の体験の質も実際には分からない。だが彼女はつらい過去からやっと今、この冒頭の笑顔に辿り着いたところなのだと了解する。自分が生きていくことをやっと認めようとしたばかりで、恐る恐る生きていられる場所をまさぐっていた。そう思えてくる。

彼女の視線は実はここまで届いてない。心の奥の闇に引かれて私たちのほんの少し手前で力なく消えている様に見える。あるいは人々に囲まれている彼女の存在には、薄い透明な皮膜がかかり、人々や事物との間に、ある種の隔たりが形成されている。それがまた、彼女はやっと今、笑顔を作る皮膚の上に、内部のそして過去の自分から辿り着いたのだと思わせる。クリスティーネは、あるいはその写真を為した者はそんな場所に生き、そんな出会いを繰り返した。少なくとも古屋氏はその様な出会いと関係の世界を作り出し構成したのだと思えてくる。

ここまで言葉を繋いできて、私はある困惑にはまり込む。何もそこに特別目新しい事態があるわけではない。批評することに必ず付きまとう滑稽さと残酷さと傲慢さの問題を意識しながら、自分の位置をはっきりさせようとしているにすぎない。

滑稽さとは、すでにこの世を去った人間について、その生き方あるいは生きていた場所について語ろうとする時、私たちは「宿命」以外のことを語ることが出来ないという事実のことだ。その存在のありうべき他の可能性を語ったとしても、それはその様にありえなかった「宿命」を伝えているだけだからだ。

残酷さとは、一つの作品によって表現された世界は全て虚構にすぎないと言えるのだが、作品として成り立つ以上、そこに表現された世界は、作り出された世界の「事実」として扱われる以外に無いということだ。作者は自らが作り出した世界との「関係性」、その関係性は「事実」として問われる。あるものが存在することを認めることは、そのあるものと関係することであり、その存在の在り方はその関係の仕方の総体を表すという原理は、ここにおいても作動している。

そして傲慢さとは、批評するということはあたかも重要なことは全て知りえているということを前提にしなければならないということだ。良く考えてみればすぐ分かることだが、いかに謙虚に振る舞おうとしても、「理解した」という心の状態はそうした前提無くして成り立たないことが分かる。この傲慢さは「宿命」を語る滑稽さと同じものだろう。だから批評することはいつも円環する。滑稽と残酷と傲慢の間を。

何を私は言いたいのか。私はクリスティーネは古屋氏に、私がこの写真集から感じるように存在させられたと言い出したいのだ。生きていたクリスティーネは、この写真集に納まっているクリスティーネとして古屋氏の前に存在した。私は私のこの作品への作品批評を、この写真集のなかの彼女を、現実に生きていた彼女と同一視することから成り立たせ様としていると言いたがっている。

なぜそう言いたいのか。それは例えば、『千恵子抄』のなかの「千恵子」と、「実際」の「千恵子」との懸隔を意識の俎上に昇らせようとすることである。優れた作品が持つ造形力によって、そこに描かれた対象は強い力でそこに存在させられる。創造力とは現実の制約を断固として断ち切って、イメージとして対象を釘付けしてしまうことである。それはそれで良い。ただその対象が死や病や惨劇である時、私たちはそこに構成された作品の世界と「現実」の世界の裂隙に対して足をすくませる。

千恵子ハ分裂病ダッタ。何カヲ求メテ画家ニナロウト苦悩シテイタ一人ノ女性デモアッタ。ソンナ千恵子ノ全テを捨象シテ千恵子ハ浜辺デ千鳥ト悲シク戯レルバカリノ千恵子トナッタ。千恵子ニトッテ果シテソレデ良イノカ。 この様に一つの作品の世界へ向けて、そこに描かれている「現実」の方から、私は批評の言葉を発しようとしている。それは私が一介の精神科医であり、精神分裂病を負った人間の「現実」(この現実も私がそうと信じている世界なのだが)に愚昧にも固執しようとしているからにすぎない。私にとってこの古屋氏の作り出したフォトグラフの世界をフォトグラフィーとして論じる力もなければ、その様に論じるべきでもないだろう。私が語りだしえる場所は、クリスティーネが世界と他者とどのような関係を築いていたかということについて、ささやかな評言が許されるであろう場所である。

自分の価値、自分の人間的魅力、これらについての深い不安と苦悩。それでもなお生きることで強いられる心から満たされることの無い虚しさや軟らげなさそして緊張。そこから抜け出すためのあせり、そして無理と日常的挫折の連鎖。失地回復のための強引なあがきと一念発起。そして挫折。不眠と混乱。そして床板を踏み抜いてしまったような発病。回復への過程のうねるような混乱のなかでの自分の病の自覚と絶望。そして死。これらは日本のある精神病理学者が描きだし定式化した一群の精神分裂病者の生存の軌跡である。

古屋氏が描きだした「クリスティーネ」は、上に記した軌道上の上をほぼ過不足なくめぐって消えた。

これは『悲劇』ではないのか。定められた宿命を知りつつ、それに抗ってもなおその宿命が成就されるという「ギリシャ悲劇」が悲劇であるならば、これはまさしく悲劇として、「観客=私」の前に成立している。

痛ましさが見終えたのち拭いきれない。それは以上のような構造によるのだろう。

この写真家はこの女性が持つ痛ましい美しさを愛した。猥雑な日常と煩瑣な不如意と無意味な空騒ぎの陰で、ひっそりと静まり返り透明な皮膜で包まれ決して画面のこちら側に越境しその存在を押しつけがましく主張してこない対象に引き付けられた。そうクリスティーネは存在の意味と生きれる場所を求めていたのだ。結婚も含め周囲から見ればはらはらするような、逸脱と方向転換を繰り返していたに違いない。「ここではない、これではない」と呟きながら。

それでも1981年、妊娠し子を為したクリスティーネは、彼女を包む透明な存在の皮膜を軟らげているように思う。子を抱き見つめる表情に自然な生気が回復し、胸元を開けてくつろぐ彼女の視線は、たしかに私たちを見つめている。それはささやかな安堵感を私たちにもたらす。それは周囲の風物のなかで、ぎこちなく子供を抱く姿にそれまでのぎこちない生き方が、多少なりとも初々しさとして受けとめるべき余地を与えてくれるせいかもしれない。なぜなら私たちは日頃から、生存の軋轢としてのぎこちなさを初々しさとして誤解することに慣れている。

そして1982年、再び彼女は一念発起し自分の生きる場所を模索し始める。演劇学校に通い新たな世界に希望を見つけようとしてあがく。しだいに彼女の視線から光が消えてゆく。

暗い過去からやっと自分に辿り着いた者にとっては、現実の生活の中でさらに生きようとすることは、生きるための「演技」を既に必要としていた。

9月22日、クリスティーネは演劇学校の試験に落ちる。このことは決定的な出来事に違いない。彼女の生きてゆくために必要とした演技を、社会に公認され現実のなかでその場所を確保された演技へと転換する必死の彼女の試みは挫折した。

クリスティーネは不合格となった後のある日、静かな川面を背景として、疲れた自分を曝している。そしてその後撮られた何枚かのポートレイトは、白と黒、光と影の強いコントラストを形成し、彼女が最後の力を振りしぼって彼、古屋氏と作り出した見事なほど美しい「虚構」の世界である。鏡に映った彼女が実在なのか、鏡に映された彼女が実在なのかもはや区別はつかないのだ。

1983年、病が襲っている。泣きむずがるわが子を抱きながら、そこにクリスティーネはいない。ざんばらに切られた前髪はたぶん幻聴に悩まされた彼女が、その恐怖と戦った跡だろう。

苛酷な病気なのだ。地下室で遊びながら幻覚と妄想の世界へ拉っしさられ苦悩するクリスティーネの姿、床で転がり遊んでいる子供の向こうで私たちには見えない何かに見入っているクリスティーネ、丸坊主になり虚空を見上げた映画「バード」のワンシーンの様なクリスティーネ、私は痛ましいと思う。

1983年以降、彼女の死までの3年間、その写真の数は写真集の約3分の1を占める。病は波のようにやって来てはまた小康をもたらす。そんな穏やかなクリスティーネが木漏れ日のように点在する。私は愛惜する。つらいだろうと思う。この病に安易なロマンティシズムが入り込む余地はない。翻弄され、うねりに巻き込まれ、岩に叩きつけられる。クリスティーネも恐らく古屋氏もきっとそうであったに違いない。この写真集にどんな誇張もない。その病はこの様にやって来て、この様に人を切り刻む。病んだ妻に対する彼の視線は驚くべき正確さを持ち、少しもぶれたりひるんだりしていない。そして私たちは彼女に対する痛切な感情と、深い愛惜感に圧倒される。私たちはこれまでこの様な思いを抱かせる、この病に苦悩する人間を記録した写真を見たことがあっただろうか。私は知らない。自分を捜し、新たな生を求めた一人の人間を襲った苛酷な病と生きる姿を、この様に表現した写真を、私は知らない。

だが私は私のなかに屈折し、欝屈する感情が起こることを見逃すことが出来ない。それは出来たら言葉に言い表わしたくないものだ。発することで私自身が矛盾した地点に追い込まれるからだ。しかし欝屈する呟きとはこんな言葉だ。

写真家ヨ、イマ彼女ノ側ニイテ彼女ヲ凝視シ彼女ヲ撮影シテイル人ヨ、かめらヲ捨テヨ、彼女ハ今、見ラレルコトニ酷ク傷ツク、人目ニ曝シテハイケナイ、幻覚ト妄想ノアラシガ遠ノクマデ、待ッテアゲタラドウカ、彼女ハ今、恐怖ノタメ零度ノ体温ニ冷エキッテイル。かめらヲ捨テ、彼女ヲ暖メヨ、触レルコトヲ彼女ガ拒ムナラ、ソット静カニ見守リ、闇ヲ恐ガル幼児ニ母親ガスルヨウニ語リカケヨ、「くりすてぃーね、大丈夫ダヨ、私ハココニイルヨ、イツモ傍ニイルヨ」

架空の話だ。瞠目し思わず目をつぶってしまう瞬間に、写真家はカメラを持ってしまうらしい。反射的に、否応なく、鋭く感じるがゆえに、銃を構えるように対象に向かってそれを構える。

私は古屋氏のクリスティーネへの愛情を疑っている者ではない。写真家の「悲劇」について語っている。知りつつなおその禁を侵して「宿命」にはまってゆく。傷つけてはならないと知りながら、なお痛手の渦中へ浸入する。もしそれを「悲劇」と感じないならそれは「喜劇」へと舞台を変える。

古屋氏は彼女を深いところで感じ、受けとめていた。精神病院という世界の崖っぷちでクリスティーネを見つめる彼の視線は穏やかで、それを物語っている。古屋氏の描いた世界が私は「悲劇」であったと信じている。

1985年10月7日、旧ドイツ民主共和国の記念日にクリスティーネは自ら命を断ったという。自分の存在の危うさと戦っている彼女にとって国家の存在は、はるかに遠かったはずである。日本人と結婚し再出発を図った彼女にとって、民族もさしたる意味は持たなかっただろう。手帳に記されたDr.Spritzeの所までは余りに遠く、自分を辿り着かせる力は、もはや残っていなかったに違いない。

捜し求めていた自分が、病にかかっていることをすでに彼女は見い出してしまっていた。私は残念でならないと思う。しかし真に悲しんでいるのは私ではない。もはや多くを語るべきではないだろう。

写真集最後のページ、遺影のなかの彼女は美しく目を見開いた素直な弥勒のように見える。

1998年3月 合掌